ルルーシュ






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2008年09月08日(Mon)
ルルーシュ
ルルーシュは、キャラクター概念の臨界点なのでしょうか。前に、そう書いてみたのですが(書いてみただけで意味が分からないので、消しておきました。)とりあえず人間とキャラクターの概念を比べてみよう(東浩紀+桜坂洋「キャラクターズ」を引き写した)。
近代文学の人物(=人間)は、ブヴァールとぺキシュ(あらかじめ答えておくと、一行も読んでません。)のように、シニフィアン→シニフィエ→シニフィアン→…というような往還を繰り返すのでしょうけど(これを、われわれが1冊も読んでいないので正しく理解しているとはいえないであろう社会学の知見で、再帰性といい、これにより内面が生まれる。人間の誕生である)、繰り返すうちに、自分は(シニフィエなき)シニフィアンでしかないことが分かるのであり、何者でもない、もはやボヴァリー夫人はボヴァリー夫人でなく、ジュリアン・ソレルはジュリアン・ソレルでもなくなった時点で幕が下りる。
日本の近代文学は、横文字を受容する中で、私小説という焦点に向かう。私小説は、純文学とも呼ばれ、濾過されて、純化され、私だけが残ることになる。あらかじめ、近代小説が終わった時点に、私は立っている。つまり、私は(シニフィエなき)シニフィアンでしかない。私たちは、意味を持たない。ゆえに、物語はない、あるのは、セックスと死だけである。これに対し、キャラクターは、確定記述の束なので、意味がないと動かない。柄谷ふうに言えば、意味がないか、意味しかない。
仮面の告白は、内面の告白としての近代文学を揶揄したタイトルであろう。しかし、三島ほどの人になると、仮面が皮膚と癒着して剥がせないところまできている(と、文庫解説はいっている)。ルルーシュは、告白などはしないが、仮面を被ることで、アイデンティティに揺らぎが出てくる。仮面を外したルルーシュは、ナナリーの兄であり、皇族であり、学生である。ナナリーに心配させたくないし、皇族だと分かれば日本人は協力しないだろうし、学生生活も続けたい、だから仮面を被ろう。ゼロになろう。しかし、ルルーシュ=ゼロということがいろんな人にバレて、ナナリーの兄でも、皇族でも、学生でもない、何者でもなくなってしまう(R2は見てないですが、まあいいでしょう)。確定記述が、すべてあぼーんしてしまう。これは、キャラクター概念の臨界といえるのではないか。
しかし、キャラクターが確定記述の束というときは、キャラの絵を念等にしてるのでしょう。カマキリのような外見が変わらない限り、ルルーシュはルルーシュですから、キャラクター概念の臨界をいうことはないのかもしれない。
むしろ、キャラを被ってるやつらはKYで嫌われる。なぜなら、キャラとしてしか付き合わないから、コミュニケーションが損なわれるからだ。こういう言い方で、キャラクターという概念を使うならば、その臨界ではあるかもしれません。この手の論者にいわせれば、キャラであることの不毛さをストーリー的破綻も厭わずに描き切った、谷口ばんざい、ということになるのでしょう。


   


人手です。

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