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2009年03月20日(Fri)
する
宇野常寛「ゼロ年代の想像力」には、人がキャラ化しているとされることについて、「である」ことへの回帰であるとして批判し、「する」ことによる承認を目指すべきである、とする箇所があったと記憶しています。今さら丸山真男なのか、という感じもしますし、あるいは、今だからこそ読むべきなのかもしれませんが…。
しかし、「する」ことに価値があるというのは、疑う余地もあるのではないでしょうか。 近代では、今というのが見失われているというのは指摘されるところです(真木悠介「時間の比較社会学」)。例えば、工場で働く(ことを「する」)のはお金のためであり、工場で働くこと自体は目的ではない。何かのために「する」のであり、「する」こと自体が目的というわけではない。今・ここではないものによって意味づけされていなければ、「する」ことに価値はない。「する」ことは、それ自体としてはちっとも楽しくない。


   


人手です。

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