無頼派






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2010年10月23日(Sat)
無頼派
太宰治や坂口安吾といった無頼派は、敗戦直後の時期に、世間を批判した。これは、私小説が、世間の気を惹こうとして、破廉恥なことを告白するのとは、全く異なる。世間がここまで理論的に批判されたのは、初めてである。
太宰治は、「人間失格」で、「世間というのは、君じゃないか。」とする。世間とは、相互監視システムであり、太宰の把握は、正しいものではないが、相互性を捉えてはいる。なお、この箇所について、加藤典洋は、「他者とは何か、それは、正しさに着地しないもの、名指されないものではないか、そう、太宰はいっているのだ」(「敗戦後論」)といっているが、開いた口が塞がらない。
世間は、相互監視システムだから、集団転向することはありうる。赤信号でもみんなで渡れば、相互監視の中では、誰からも咎められることはないからである。太宰が「時代は少しも変らないと思う。一種の、あほらしい感じ」(「苦悩の年鑑」)というのは、正しい。相互監視そのものは何ら変わっていない。
坂口安吾は、「堕落論」で、堕落することで救われると説いたが、これも、相互監視を批判するものである。相互監視の中では、常に周りのまなざしを気にしなければならず、個人として生きるということはない。堕落は、個人化の契機なのである。
《安吾には、「超自我」が欠けているということである。しかし、他方で、彼は自己立法(自律)的であり、それに関しては驚くほど峻厳かつ勤勉である》(柄谷行人「坂口安吾とフロイト」)。相互監視によってのみ行動を規制しているムラビトが、相互監視を離れれば、無法者になるおそれがある。そうならないためには、自律的であること、つまり自我を強く持つより他ないのである。
無頼派は、世間の外には出ず、その内に止まって、世間を批判した。変革を企てたのであろう。「徒然草」のように世間の外に出て、世間を批判する書物は、決して珍しくない。それらを世間の人は、共感しながら読んでいた。しかし、それでは何も変わらない。


   


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