風子思考集成 - 2008/03

fuukoについて




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2008年03月29日(Sat)▲ページの先頭へ
じべたのすごさ
シムーンでは、大人になるときに性別を選択できる(デフォルトは女)、性別を選択する
ことで大人になる。つまり、男/女と大人/子供という二つの線を、同時に越えなければ
ならない。
放浪息子でも、だいたい同じような二つの線が扱われ、かつ、線のとぐろの巻き具合が
半端ではない。しかし、シムーンは、線自体は静的である。
そして、女、子供という2つの第二項に留まることが、選択されている。ここで使われる
翠玉のリマージョンは、超越するための装置にも見えるものの、むしろ、彼女らは内在
することを選択している。
true tearsで乃絵が用いる、飛ぶ、とは彼女の台詞によると、世界を超越することのよう
である。飛ばないことを決めることが、飛ぶことと同じなのは、超越などありえず、
内在せざるを得ないことによる。じべたのすごさとは、こうした世界のありようを認識
しつつ、悠然としていることにあるのであろう。


2008年03月25日(Tue)▲ページの先頭へ
ゲーム的リアリズム
あいちゃん、三代吉は、自然主義的リアリズム、真一郎、比呂美は、まんが・アニメ的
リアリズム、乃絵、純は、ゲーム的リアリズムに属している(としておきたい)。
あいちゃん、三代吉は、じゃりン子チエに出てきても不思議ではない人たちである。
真一郎、比呂美は、まんが・アニメ的にありがちな幼なじみであり、思考の抽象度は
それほどではない。しかし、乃絵、純は、思考の抽象度がきわめて高く、現実との関係も
閉じている。これらの同じ地平への現れは、ストーリーを分かりにくくしたとはいえ、
失敗ともいえない。キミキスのように、ゲーム的リアリズムを、まんが・アニメ的
リアリズムに移行させただけのものとは、認識の差が歴然としている。


2008年03月21日(Fri)▲ページの先頭へ
ハイデガー入門と、ドゥルーズ入門と、ラカン入門を読みました
こんな、ハイデガー入門と、ドゥルーズ入門と、ラカン入門を読みました。
偉いでしょう。いや、入門だけでいいんですよ、みたいな、文を、
書き散らすことしかすることがない。しかし、人間、生きている限り、
何かせざるを得ない、例え、それが、無意味な文を、書き散らすことであった
としても。アニメは、ニヒリストのものなのだろうか。
ドストエフスキーのニヒリストは、どうしてか、みんなロリに向かっている。
しかし、超越的なものが信じられないから、生成的なものに向かうとしても、
それをニヒリズムということこそ、ニヒリズムなのである。生成こそ、
価値なのだとすれば。かわいいとは、生成の無垢のことなのである。


2008年03月17日(Mon)▲ページの先頭へ
日本の思想
シニフィアンしかないから、思想は、並べることにしかない。
日本の橋なんて、要旨は数行だが、いろんな橋につき、滔々と語られる。
枕草子が、その嚆矢だろうが、和歌集なんかも、並べてるだけだ。
しかし、極めつけは、遺書、美味しゅうございました、であろう。
あれを上まわる遺書はおそらくありえないと思われる。
川端康成などが絶賛したのも頷ける。これが日本の思想である。
円谷幸吉こそ、この国最大の思想家なのである。


2008年03月13日(Thu)▲ページの先頭へ
息をする名塚佳織
はあはあ息をしていた。
息をする名塚佳織。ここまで、息が感じられたのは、エヴァの20話くらいしかw
アニメとは、登場人物に息を吹き込むことではなかったか。
おっさんの、絡みつくような視線を感じた。


2008年03月10日(Mon)▲ページの先頭へ
万引きでも銃殺です
ホリエモンは、もう過去の人ですが、彼は経済犯などではない。彼のしたことは、万引き
くらいのものであるともいわれ、彼は、むしろ思想犯でしょう。
彼は、お金はSe(シニフィエ)だといった人です。それ以上のことは言っていませんが、
これが検察をはじめ、国の中枢を震撼させた。資本主義の世で、これほど当たり前の
ことはないようにも思われる。しかし、Seなど、この国ではあってはならず、彼や村上が
投獄されるとすれば、お金はSeだと、あっけらかんと言ってしまったことにあるのです。
北一輝が銃殺されたのと、同じようなものです。世が世なら、彼らも銃殺されていた
でしょう。万引きでも銃殺です。


2008年03月06日(Thu)▲ページの先頭へ
善悪の彼岸
善悪の彼岸とは、別に、善と悪の彼岸ではない。ニーチェは、そんなことをいっては
いない(らしい)。善悪の線の襞のようなものが、それだという。
リプリーは、善悪の線上を漂いつづける人物である。たしかに、人を殺したりもするし、
法が引く線は超えているが、にもかかわらず、彼が悪であるとは言い切れない。
放浪息子は、男女の彼岸の物語であるといえるかもしれない。女の子になりたい男の子と、
その逆が、男女の線上を漂う。もうひとつ、第二次性徴の線が加わることで、
男の子は男に、女の子は女になってゆき、そのすべてが、流麗な曲線で描かれてゆく。


2008年03月02日(Sun)▲ページの先頭へ
サクセスの秘密
朋ちゃんは、ピュアではないが、イノセントだと中原昌也はいっている(「サクセスの秘密」)。
例えば、ソーニャのような聖なる娼婦というようなひと(白痴といってもよいけど)は、
そういうふうにカテゴライズされるのではないでしょうか。
今の女の子は、ピュアというのはありえても(純(pure)なるがゆえに不純)、イノセント
というのは、ないような気がする。聖なるものからは遠いといわざるを得ない。
東京物語みたいなのはもはや作られないだろう。


   


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