風子思考集成 - 2008/09

fuukoについて




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2008年09月30日(Tue)▲ページの先頭へ
コカントク
「守りたいから私は飛ぶ!!パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」というコピー(注)は、作品のコンセプトを表しているといえそうですが、一見無意味な「守りたいから私は飛ぶ!!」という前半部にも、大きな意味があると思われる。この作品は、パンチラというレベルではなく、パンモロです。パンチラであれば、必ずしも空を飛ばなくてもいいけれども、パンモロを、空中以外で自然なものとして見せるのは難しい。地上において長い時間のパンモロを撮ろうとすれば、スカートの下から撮るしかないと思いますが、それには犯罪の匂いがする。足にプロペラのようなものを付けていて、それで飛んでいるようですが、このプロペラがないと、足から(股間を)見るというアングルに不自然さが生まれてしまう。少女の股間へのまなざしだけで作品を成り立たせていて、潔いし(ガイナックスのお偉方によるコカントクという命名は本質を突いている)、それが自然なもの、見てよいものであるように映るよう全力で工夫されている。
(注)2ちゃんねるのテンプレの表記。どうやら、「守りたいから私は飛ぶ!!」が本来のキャッチコピー、「パンツじゃないから」はキャンペーンコピーのようです。


2008年09月27日(Sat)▲ページの先頭へ
岬ちゃん
「ある子供」を見た。大澤真幸「不可能性の時代」(岩波新書)で、ドキュメンタリーふうに撮られた物語にまったく救いはないが、フィクションであることを示すため、ラストに救いを入れてみたという監督の言葉が紹介されており、どんな舐めた感じなのか、楽しみだったのですが、フレームは完璧なものでした。そのラストは、どうしょもない男が、彼の子を生んだ女に、頭を子供のように撫でられ、泣いてしまうというもので、タイトルの由来にもなっているようです。これは、母をイメージさせる。愛されなかった子を、母親のように、撫でてあげる、これが救いということのようです。
サッド・ヴァケイションでも、ラスト間近で、宮崎あおいが、中国人に追われて怯える青年の頭を膝枕の上で撫でていますが、母性の目覚めというようなものなのでしょうか。キャリア的にも意味のあるシーンなのかもしれません。
結局のところ、ソーニャがいなければ、あるいは、岬ちゃんでも、牧野由依でもいいのですが、救いはない。富野とともに、女が母をやめたとき、全ての悪が始まったというべきなのでしょう(ブレンパワードにそういう台詞があった)。


2008年09月20日(Sat)▲ページの先頭へ
マキノユイ。
初音ミク in スケッチブックを持ったまま(注)をうpした人は、こういっている。《ミクがだれております。ちょっとキャパオーバー気味だったようです。------牧野由依さん、こんな素敵な曲を出していたと最近知って・・・もう作るしかないと!----由依さんの甘くぬっくい声には到底及ばないけど、ミクはミクなりに、です》。
(注)http://www.nicovideo.jp/watch/sm1443932
牧野由依の2ndアルバム、マキノユイ。を聞いてみたのですが、2曲目に、マーマレードという小泉今日子のKYO→というファンから公募した曲を歌うという企画アルバムからのカバーが歌われていた。標準的なアイドル史によると、小泉今日子は、なんてったってアイドルで、アイドルは100%幻想だということをぶっちゃけてしまい、虚構の時代の終わりを告げた人(の一人)です。ファンから公募した歌詞を歌うというのも、阿久悠やら秋元康やらが書いたものを歌うはずの存在であったアイドルのありようのちょっとした解体でしょうが、ミクに至っては、自由に自分の曲を歌わせられるわけで、KYO→は、その真ん中にあるといえるかもしれない。マーマレードについていえば、「甘くぬっくい」(この語をググると、(注)のページがトップに出てくる。)というのがぴったりで、オリジナルも聞いてみたのですが、聞き比べてみれば、いかに甘く歌われているかが分かります。


2008年09月13日(Sat)▲ページの先頭へ
世界平和
《私の胸が、あとちょっとだけ大きかったら、私の目が、あとちょっとだけ大きかったら、私の鼻が、あとちょっとだけ高かったら、この世界も少し、変わるかも知れない。世界平和》。
大塚美容形成外科のCMですが、このCMについて考えるに、世界は確定記述の束であるといえるでしょう。太陽は赤いとか、地球は丸いとか、そういう記述の束が世界です。整形を通じて、私の胸や目や鼻を、大きくしたり、高くしたりすることで、私という記述の束の一つを、別のものに置換する。そうすることで、世界という記述の束の一つも、別のものに置換されたことになります。つまり、「この世界も少し、変わる」。
そして、それは「世界平和」である。しかし、ここには人を躓かせるものがあります。なぜ、世界という記述の束の一つを別のものに置換することが、「世界平和」なのでしょうか。他の記述が全て同じだとして、例えば、私の胸が、あとちょっとだけ大きな世界は、今のままの胸の世界よりも、平和だとすれば、どうしてでしょうか。ここでは、私という記述の束の一つが置換されただけで、私の外の世界は全く変わっていません。つまり、変わったのは私であり、私の外の世界ではない。にもかかわらず、このCMは「世界平和」といっているのです。
おそらく、私の胸が、あとちょっとだけ大きくなった世界では、他者のまなざしがちょっとだけ変わってくるのでしょう。そのことで、私は、自分に自信が持てるようになり、自分を愛せるようになる。世界を愛するためには、自分を愛せなければなりません。イプセンは、「かつて一人を愛したことのない者は、全人類を愛することは不可能だ」といっていますが、ミサトさんがいっているように、うろ覚えですが、自分を愛せないものが一人を愛することはできないでしょう。つまり、自分を愛することができて初めて、一人を愛し、そして全人類を愛しうるのです。こうして、私たちは「世界平和」まで辿りついた。


2008年09月08日(Mon)▲ページの先頭へ
ルルーシュ
ルルーシュは、キャラクター概念の臨界点なのでしょうか。前に、そう書いてみたのですが(書いてみただけで意味が分からないので、消しておきました。)とりあえず人間とキャラクターの概念を比べてみよう(東浩紀+桜坂洋「キャラクターズ」を引き写した)。
近代文学の人物(=人間)は、ブヴァールとぺキシュ(あらかじめ答えておくと、一行も読んでません。)のように、シニフィアン→シニフィエ→シニフィアン→…というような往還を繰り返すのでしょうけど(これを、われわれが1冊も読んでいないので正しく理解しているとはいえないであろう社会学の知見で、再帰性といい、これにより内面が生まれる。人間の誕生である)、繰り返すうちに、自分は(シニフィエなき)シニフィアンでしかないことが分かるのであり、何者でもない、もはやボヴァリー夫人はボヴァリー夫人でなく、ジュリアン・ソレルはジュリアン・ソレルでもなくなった時点で幕が下りる。
日本の近代文学は、横文字を受容する中で、私小説という焦点に向かう。私小説は、純文学とも呼ばれ、濾過されて、純化され、私だけが残ることになる。あらかじめ、近代小説が終わった時点に、私は立っている。つまり、私は(シニフィエなき)シニフィアンでしかない。私たちは、意味を持たない。ゆえに、物語はない、あるのは、セックスと死だけである。これに対し、キャラクターは、確定記述の束なので、意味がないと動かない。柄谷ふうに言えば、意味がないか、意味しかない。
仮面の告白は、内面の告白としての近代文学を揶揄したタイトルであろう。しかし、三島ほどの人になると、仮面が皮膚と癒着して剥がせないところまできている(と、文庫解説はいっている)。ルルーシュは、告白などはしないが、仮面を被ることで、アイデンティティに揺らぎが出てくる。仮面を外したルルーシュは、ナナリーの兄であり、皇族であり、学生である。ナナリーに心配させたくないし、皇族だと分かれば日本人は協力しないだろうし、学生生活も続けたい、だから仮面を被ろう。ゼロになろう。しかし、ルルーシュ=ゼロということがいろんな人にバレて、ナナリーの兄でも、皇族でも、学生でもない、何者でもなくなってしまう(R2は見てないですが、まあいいでしょう)。確定記述が、すべてあぼーんしてしまう。これは、キャラクター概念の臨界といえるのではないか。
しかし、キャラクターが確定記述の束というときは、キャラの絵を念等にしてるのでしょう。カマキリのような外見が変わらない限り、ルルーシュはルルーシュですから、キャラクター概念の臨界をいうことはないのかもしれない。
むしろ、キャラを被ってるやつらはKYで嫌われる。なぜなら、キャラとしてしか付き合わないから、コミュニケーションが損なわれるからだ。こういう言い方で、キャラクターという概念を使うならば、その臨界ではあるかもしれません。この手の論者にいわせれば、キャラであることの不毛さをストーリー的破綻も厭わずに描き切った、谷口ばんざい、ということになるのでしょう。


2008年09月01日(Mon)▲ページの先頭へ
萌えカス
犬とか子供とかは、動物社会学の知見によると、幼児図式といって、かわいく見えるように出来ているらしい。かわいく思わせることで、飼い主だとか親だとかに、保護するように仕向ける。かわいいという感情は、動物にもあるということなのでしょう。真木悠介(=見田宗介)「自我の起原」は、大意として、犬や子供は、かわいいと思わせることで、飼い主や親を、操っているということになるのかもしれないが、それでもいいじゃないか、それでかわいいと思う側が、幸せに感じるのなら、といっている。
現在のかわいいは、かわいいと思えるものを、自ら作って、それをかわいいと思うことで、幸せを感じるというものでしょう。進んで動物になることで、幸せを感じる。
統治の側から見れば、かわいいものを与えておくことで、幸せを感じさせ(フィールグッド)、不満を抑えるというのが考えられる。四方田犬彦「「かわいい」論」では、ナチスの収容所にかわいい絵が貼られていたことを、終盤で持ち出している(らしい)のですが、しょせんぼくらは「萌えカス」(注)だから。
(注)「ぼくらはみんな“萌えカス”になってしまったのか!?」(中原昌也ほか「嫌オタク流」、太田出版)


   


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