風子思考集成 - 2008/11

fuukoについて




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2008年11月26日(Wed)▲ページの先頭へ
白雪姫
モンスターペアレントが、白雪姫が25人いる劇をやらせたらしいですが、いったいどういう劇だったのでしょうか。オリジナルでなければ、白雪姫のセリフを25人で合唱するような形にならざるを得ません。これはラディカルといっていいのではないでしょうか。昔から、一人の役は一人が演じるというのが暗黙の了解でしたが、疑うことは出来る。またの日の知華では、一人の役を、場面ごとに4人で演じていましたが、同じ場面において、一人の役を何人かでやれば、この白雪姫みたいな劇になるでしょう。分裂してゆく自己をビジュアル化しているといっていいのではないでしょうか。新たな主体観といえるかもしれない。まじめにセリフを読んでいない白雪姫もいたりするでしょうし、全然違うセリフを言う白雪姫もいたでしょう。いろんな表情の白雪姫が同時に現れる。おそらく、こういう劇では、木でもやったほうが目立ったでしょう。


2008年11月20日(Thu)▲ページの先頭へ
やればできる子
ソウルイーターの2話で、名塚佳織は、ブラックスターは「ほんとはやればできる子なの」といっている。いわれて嬉しい人がいるので、こういう台詞が出てくると思うのですが、こんなことをいわれて何が嬉しいのか、分からない。願望含みであり、その願望というのも、自意識過剰だけど、ほんとは実力があり、しかも、かわいい女の子がそれを分かってくれていて、その女の子の導きで、実力も開花し、精神的にも成長してゆく、というもの。現実は、実力などどこにもなく、女の子の影さえない暗い部屋で、自意識だけが膨張してゆくだけ。
ガンガンは、小学生くらいの男の子に向けているという建前だろうから、そのくらいの子供であれば、母親依存的な心理も分からなくはない。インデックスで顕著に見られるようなラノベ風の青臭い主張をしてもよい。しかし、諺にある通り、「青臭いのが許されるのは中二まで」であろう。
男の子は、三人が三人とも、自信過剰。女の子の応対を見ると、マカは姉御肌、椿は母性愛といえるのだろうか。ソウルイーターとブラックスターは似たもの同士だと思いますが、デスザキッドは名家の跡取りで、姉妹よりも上に立っているといえそうです。御主人様に姉は服従し、小悪魔的な妹は手玉に取るというのは、これが私の御主人様みたいですが、これも男の子の願望なんでしょう。


2008年11月14日(Fri)▲ページの先頭へ
I’m proud
援交とは何だったのか、それが問題なのかもしれません。制服少女の選択の文庫付録で、もと援交少女は、援交は売春になってしまい、かっこ悪くなったといっていますが、では、援交と売春を分かつものとは…。おそらくは、そこには、九十年代固有のコミュニケーションというものがあって、朋ちゃんがI’m proudと思えたように、援交少女もI’m proudと思えたのでしょう。阿部和重は、グランド・フィナーレで、ロリの男ともと彼女(だったか?)が交わしている長い対話は、九十年代を回顧するための予行的なもの(?)であると、対談集で話していましたが、九十年代のコミュニケーションのありようは探ってみると面白いかもしれません。小室の詞は、この時代の倫理を語っていたといっていいのでしょうが(皮肉ではなく)、浜崎的なものによって更新されてしまい、後は…。


2008年11月08日(Sat)▲ページの先頭へ
大きなお友達
紅で、7歳のようじょが説教するのは、白けるどころか、説教なんて子供がするものなんだよ。大人が、説教なんかしても全く説得力がない。罵倒30分は妹だからこそ聞いていられる。しゅごキャラが答えだと思えれば、それがゴールだ。これは、小さなお友達にとってもそうだし、大きなお友達にとってもそう。なりたい自分というのは、今の自分のとっての夢のことだろう。大きなお友達は、小さなお友達が、壊されそうになりながらも夢を抱いているのを見て、心を満たすものなのです。大きなお友達にとって、なりたい自分になるなんてギャグでさえない。むしろ、彼らは、小さなお友達になる。なりたい自分になりたい自分になる。卵に帰るといってもよい。女の子向けアニメを見ているオタクが気持ち悪がられるのは、こうした小さなお友達に生成するというメカニズムが透けて見えるからではあるまいか。


2008年11月02日(Sun)▲ページの先頭へ
ざんげちゃん
かんなぎは、アイドルで行くみたいだけど(OPは演出ではなかった)、神様なのにアイドルになるというのは、奇異ではある。七十年代から八十年代にかけて、パルコと同じく、アイドルには、擬似的超越性があった。一人が大勢のまなざしを集めるというだけで、別格感が醸し出されるというもの。なぎとしては、神木がない今、神様と認められるには、擬似的であれ超越性がなければならないため、アイドルになろうというわけです。アイドルの存立構造が知れ渡ったため、誰もがアイドルのような振る舞いをできるようになったのかもしれない。テレビを作る過程を見せるテレビを、純粋テレビというそうですが、今のアイドルは、純粋アイドルとでもいえるだろう。普通の人をプロデュースしてゆく。ランカ・リーとかも、そういう感じだと思う。それにしても、ざんげちゃんを花澤香菜がやってるのは、ドンピシャだとしかいいようがない。彼女にはざんげの値打ちもないのかもしれませんが。


   


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