風子思考集成 - 2008

fuukoについて




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2008年07月18日(Fri)▲ページの先頭へ
自慢できること
面接は沈没でしたね。1次なのに…。集団面接だったので、緊張はしませんでしたが。面接カードに即した質問がされます(まず、これを知らなかった)。あなたはどういう人物ですかと、いうのが冒頭の問いでしたが、僕は、人のために、という面接カードに書いた抽象論(注)を述べただけでした。段々こちらの答えも、投げやりになり、向こうも他には二の矢の問いを出すのに、僕にだけ出さなくなってしまった。
あなたはどういう人物か、という問いは、皆さん準備されていたようで、それを読み上げればいいという状態なのに、僕だけその場で考えていたので、この時点で脱落したと申してよいでしょう。
これは鉄則なのかもしれないですが、他の3人は、アルバイト経験をさりげなく織り交ぜていましたが、僕はアルバイト自体やったことがない。おそらく、大学生活は、面接に耐えうものでなければならず、そのためには、アルバイトは買ってでもすべきなのでしょう。
面接カードに、どちらかというとインドアな生活をすることで、多くの映像や文献に接したことを、「自慢できること」に挙げておいたのですが、これについて、いわゆるオタクとどう違うのか問われ、まったく答えられませんでした。おそらく、オタクは軍事など狭い関心領域しかないのに対し、私は、広い関心で映像全般を網羅している、とでもいえばよかったのでしょう。それは県の仕事に生かせますか、と二の矢が来ても、はい。わが県は、文化の県として知られております。映像に詳しいことは、県の文化を伝えるうえで、必ずや役に立つことと信じます。ともあれ、インドアなどという言葉を面接カードで使うべきではなかった。
とにかく、僕は投げやりな印象を与えがちなので、それだけは避けるべきであろう。あとで考えると、思いのほか早口になっていたのが、驚きでした。僕の語り口というのはどうも、独り言にしか聞こえないんだよね。
(注)いわく、こんな感じ(もちろん、もっとフォーマル)。「私は、公務員に向いてると、人によく言われる。なぜかと考えたが、私は、他人のことをよく考え、他人のためになるように常に心がけているからだろう。今までも、ちいさなことからコツコツと人のために尽くしてきた。他人への思いなら誰にも負けない自負がある」。


2008年07月13日(Sun)▲ページの先頭へ
少女マテリアル
鳴子ハナハル、少女マテリアルは、巻頭カラーの2/4で、4Pをやっているのですが、必然性のある4Pのシチュエーションを考えたというだけで、画期的なのではないでしょうか。それほどエロマンガに詳しいわけでもないので、はっきりとはいえませんが。
あらすじを述べよう。おんなのこがおんなのこに恋をしていて、おんなのこに近づくために、おんなのこの幼なじみと付き合うことにします。おんなのこは別のおなさなじみと付き合っていたので、おんなのこ同士で交わりたいと思い、4Pを持ちかける。これだけで、エロなしでも1冊くらい出来るでしょう。
おんなのこも彼氏に悪いとは感じているようで、「時間なんていくらでもあるんだから」「孝史との時間も入れといてやるか」といっている。青春は短いから貴重だといわれたりもするのですが、時間がいくらでもあると感じられるのは、先の展望がないことにもよるのでしょう。おんなのこは、何となく乃絵に似ている。
タッチでは、南ちゃんと双子が幼なじみなわけですが、これにもうひとりおんなのこ(北ちゃん?)がやって来て、南ちゃんとくっ付こうとするという感じであろう。タッチは、南ちゃんが双子のどちらとくっ付くか決められないため、作者が片割れを殺してしまったのだと思うのですが、フタコイオルタナティブを見てると、三人でいいじゃないというあっけらかんとした終わり方をしていました。2/4は、これを四角関係にすることで、解こうとしたといえよう。


2008年07月06日(Sun)▲ページの先頭へ
死に神
鳩山法相は20日の閣議後会見で、「(死刑囚は)犯した犯罪、法の規定によって執行された。死に神に連れていかれたというのは違うと思う。(記事は)執行された方に対する侮辱だと思う」「私を死に神と表現することがどれだけ悪影響を与えるか。そういう軽率な文章を平気で載せる態度自身が世の中を悪くしていると思う」。(6月20日11時12分配信、産経新聞)
死刑執行は、法執行であり、ゆえに正しい。「死に神」の執行(?)は、法執行ではないので、正しくない。このように、死刑執行と「死に神」の執行とは、法執行か否かという点で、差異がある。法執行による死は、罪の清算という意味があり、「死に神」の執行には、そのような意味はない。従って、「死に神」という表現は、死の意味を奪うものであり、執行された方に対する侮辱である。
周到な論理であり、断定は出来ないが、おそらくは官僚により用意されたものであろう。この論理は、官僚ふうである。法執行に対するこうした感性は、他の職業では身に付かないように思われる。しかし、論理上は、法執行は法執行であるとしかいえず、それが正しいか否かは別の問いである。ナチスの行ったことも、法執行ではある。ナチスは、「死に神」ではないのだろうか。法執行による死は、罪の清算という意味があるにしても、そのような法制度の是非は別の問いであり、「死に神」という表現も、その別の問いに属している。朝日新聞は死刑制度に反対ではないといっているが、それでも、その問いの領域で揶揄する権利くらいはある。
現今の死刑執行は、官僚にとって、法制度を守るためという以外の理由はないだろう。厳罰化が進んでおり、裁判員制度を控え、未執行者が百人を超えるようだと制度が持たないので、こうした挙に出たということであろう。官僚自身は、死刑を熱烈に支持しているというわけでもなく、枢要な法制度である刑罰制度のうち、制度上現存しているものは維持されなければならないと考えているのであろう。
死刑執行人や法務大臣を「死に神」と表現することは、慣用句といってもよいものであり、どのような悪影響もない。この程度の表現を「出る杭」として打つことは、言論の危機を齎しかねない。


2008年06月28日(Sat)▲ページの先頭へ
灰羽連盟
ニアアンダーセブン(注)のふたりは、犬と猫を思わせるが、それは、きみとぼく(西尾維新「きみとぼくの壊れた世界」)のような、あるいは西田幾多郎「私と汝」のような鏡像的な(?)ものではない。
真綾たんは、私は犬で、恋人は猫、という言い方のほかに、きみはぼくで、ぼくはきみだったというような言い方もしており、これが同じ人なのか、別人についていっているのか、分かりません。ニア〜は、ふたりで共にいることがテーマだけど、分身のようなふたりではない。
シムーンでも、あれだけ多くの中から誰とパルを組むかが、大きな焦点でしたし、エウレカなんかでもレントン=エウレカで一組みたいな扱いですし(二人乗り)、このあたりはいちおう論点のひとつだと思います。
(注)灰羽連盟は、外に片割れがいるということなんでしょう。賽の河原らしいですが、その人との関係で外に出るべきだ、ということなのでしょうか。ウテナの劇場版みたいなのとは、たぶん、異なる論理が用いられているのでしょう。


2008年06月21日(Sat)▲ページの先頭へ
関数
ほしのこえは、記号(僕、彼女)と距離(=彼女が遠ざかる)だけで出来ている。いわば関数である。ここで私たちは、もはや聴くことのないであろうムーディー歌謡を、想起できる。右から何かがやってきて、僕はそれを左に受け流す。記号(僕、何か)と何かの動き(=僕に向かってくるが、受け流されると去ってゆく)だけで出来ている。ほしのこえを不条理版である。極西文学論は、その徹底したいい加減さ、無内容さゆえに、新世紀を代表する文芸書となっている。西から何かがやってきて、それを東に受け流す。それしかいっていない。しかし、舞城王太郎なんてどうでもいいや、と内心思っている多くの人たちにとっては、逆に微笑ましい。


2008年06月14日(Sat)▲ページの先頭へ
削ジェンヌ
規制に巻き込まれ、2ちゃんねるに書き込めない。電波王▲▲ ◆DD..3DyuKは、どうやら運営にも入り込んでいたようで、もう笑いが止まりません(荒らし怪人・電波王を晒し上げるスレッド-737〔削ジェンヌ▲ ★〕)。たまに規制があると、生活が元に戻るので、その面では助かります。しかし、書き込めないというのは悲しいもので、常駐しているスレが進行していくのを黙ってみているときの気分は、AIRのAIR編のようなものであるといえば、動ポモ2の論旨に即しているでしょうか。「My Life Without Me」(邦題「死ぬまでにしたい10のこと」)とでもいえば、より伝わるかもしれません。


2008年06月09日(Mon)▲ページの先頭へ
ツンデレの歴史
ツンデレの歴史は、だぁ!だぁ!だぁ!から始まった(?)。名塚佳織のあまりの棒読みにもかかわらず、見事なツンデレが出来上がっている。感情があまりストレートに出てはいけないのがツンデレだから、あのくらいの棒読みの方がかえってよいのだろう。
堀江由衣は、棒読みではないが、そのキャラクターに固有の声という感じでもない。違和感はないが、この人はこのキャラの声というふうな一致は、全く見られない。これは、キャラとして周りと隔絶している、コミュニケーションがないことに起因している。(アイドルとしては、キャラとの一致などないほうがよいともいえる。)
これに対し、名塚は、三瓶由布子らとコミュニケーションは取れている。彼女は、コミュニケーションの取れる棒読みなのである。大地作品は、基調として、このようなラインの声優を用いていると思われる。
名塚は、アニスター★の中で、アニメは会話劇であるという持論を展開した直後、これを朗読劇と言い換えている。会話劇と朗読劇が同致するところに、役者としての真骨頂があるといえよう。


2008年06月02日(Mon)▲ページの先頭へ
かわいい、は研究した
清水香里は、こういっている。《かわいい、は研究した。かわいい芝居がほんとにできなくて。オーディションどこ行っても「もっとかわいくやってもらえませんか?」って。もう死んでしまうんじゃないかっていうぐらい甲高い声を出したんだけど、どうやらそういうことじゃなくて、台詞の言い方なんだよね。》(注)
美が、イデアの写像であるのに対して、かわいいは、内在に関わる概念である。つまり、超越がない場所で、生成するものに感じる愛おしさといったものが、かわいいである。萌えは、さらに進んで、対象への没入、主客合一することである。
従って、ゲーム的リアリズムが「岡崎朋也は私だ」というありようだとすれば、おたく的リアリズムとは、これに加えて、「古河渚は私だ」といいうるような、あるサイケデリックな態度をいうものと考えられる。
(注)アニたまどっとコムstandardまるなげ♪第18回
http://syn.mari-fc.com/?eid=722937


2008年05月26日(Mon)▲ページの先頭へ
さくらちゃん
久美薫「宮崎駿の仕事」は、魔法少女の系譜学めいたことを書いており(第5章)、CCさくらについて、完璧な娘であり、妹であり、恋人(未満)であると述べている。父との関係が、キーワードですが、その辺は割愛したい。
父との関係が、セーラームーンでいったん消えて、もう一度現れたときには、友達家族のようになっていたのであろう。CCさくらの父は、父(未満)とでもいうべきなのかもしれない。さくらちゃんがあまりに完璧なので、父として振る舞う必要がない。さくらちゃんほど完璧な娘に、何を教えればいいというのか。
父や恋人が、それぞれ未満だったので、完璧な娘であり、妹であり、恋人(未満)であることが出来たものの、丹下桜じしんは、そこに閉じ込められた…。同じく妹である田村ゆかりや釘宮や清水愛は、こうした隘路をそれぞれのやり方で、回避している。
清水愛は、姉とペアをなしている。まほろ、この醜くも美しい世界では、川澄の妹であり、これが私のご主人様では、ご主人様が姉(浅野)を弄ぶのを囃し立てる。中原とのペアが、おねツイ、DearS、舞-HiME、ストパニなどで見られ、これらが代表作であろう。1stアルバム「発芽条件M」は、SMのMである。植田佳奈によると、「まあ、Mが似合いそうな雰囲気ではあるよね」(アニたまどっとコムstandardまるなげ♪#32)。
釘宮理恵は、初主演した、りぜるまいんでは、押しかけ幼な妻として、妹の攻めのありようを見せる。ハガレンの機械になった弟は、ショタであろうし、そのあとはツンデレを立て続けに演じることになる。朴ろ美とか、日野と対になって、Sをやっているといえる。


2008年05月19日(Mon)▲ページの先頭へ
ソーダ味
清水愛は「田村ゆかりとの共演も多いが、恐れ多くてなかなか二人っきりで話せないらしい」(Wikipedia)。清水愛と田村ゆかりは、「ソーダ味とキャラメル味」(清水愛ちゃん その35-724)くらいには違っているけど、歌などの世界観は近いし、風貌も似てきた。少女的なもののもとへの滞留…。
「奥様は魔法少女」というのは、井上喜久子は17歳といっていることと等しい。リリカルなのはは、シリーズが進むに従って(見てないけど)、魔法少女が歳をとってゆくが、魔女になるわけではない。魔法少女のその後が、これほど執拗に画かれたことはないだろう。少女的なものへの滞留は、時間により妨げられるのか。そうしたことが問われているのである。田村ゆかりの掛け金は、全てそこに置かれているともいえよう。


2008年05月12日(Mon)▲ページの先頭へ
マーヤ
「少女セクト」に、「上出来ね。じゃ最初で最後のお願いをひとつだけ叶えてあげる。何て呼んでほしい?」「あの…じゃあ「まーや」って呼んでください」「平仮名で?片仮名で?」「ひ…平仮名で」(句点は引用者)というシーンがありました。
「まーや」と「マーヤ」。とりあえず、坂本真綾は、「マーヤ」でした。うまく言語化は出来ませんが、「まあや」という感じではないかもしれない。
平仮名と片仮名、どうして二通り文字があるのか、不思議に思うかもしれませんが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも調べてみよう(注)。
柄谷行人が「反文学論」で、イェール大学にいた頃、久しぶりに日本文を見たとき、なまめかしい(?)ものを感じたというようなことを書いていたような気がするのですが、たしかに「まあや」というのは、なまめかしい気がする。
(注)平仮名、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BB%AE%E5%90%8D


2008年05月05日(Mon)▲ページの先頭へ
オーディション
風人物語に、オーディション顛末記というエピソードがあります。この作品は、淡々と、切り絵のようなタッチで、少女に内在するものを風という喩を用いつつ、切り取っていくわけですが、オーディションというのはその中でも外部との接触といえるでしょう。
少女にとって、芸能的なもの(非日常)が入り込んでいない日常はないといってよい。オーディションは、そうした日常と非日常の線の上の出来事です。柄谷行人は、「受験生だけが“生きて”」いるといっています(「反文学論」)。受験生は、世界に直面しているのです。そのあまりの無意味さ、残酷さに。オーディションも、そういうものでしょう。就活の面接などは、社会に直面している。社会も残酷なものですが、とどのつまりは無意味ではあるものの、意味が強制される。御社の業績なんて、どうでもいいはずである。


2008年04月28日(Mon)▲ページの先頭へ
ヘボ涙
橋下府知事のヘボ涙、ドブ涙など、たれも見たくない(しかもウソ泣き)。彼は、そこで、公務員の給料は高いとか、いっている。しかし、公とは、どれだけ要らない人員を抱えるかということである。するべき仕事なんか、もはやないことをはっきり認めなければならない。企業も、要らない人員をもっと抱えるべきだ。全ての社員が窓際にいる企業こそ、理想であろう。企業の社会的責任は、そういうところにしかない。
もはや、するべき(shall)とか、仕事とか、そういう概念は消尽したのだ。我われが考えるべきなのは、もう何もしたくない、そういう人が、ほとんどあるいはまったく仕事などしなくてもすむような社会構造である。どうすれば仕事を減らすことが出来るかを考えることだけが、意義ある仕事である。技術とは、そのためにあるものなのだ。


2008年04月23日(Wed)▲ページの先頭へ
マメシバ
坂本真綾のトライアングラーは、タイトルからしてそうですし、歌いだしからも分かるように、三角関係を歌っています。ひとつ前の、さいごの果実というのは(PVしか見てないですが)、ふたりは鏡のように似ている、そういうふたりの歌でした。
彼女のCDをそう熱心に聴いたわけでもないですが、たぶん、三角関係を歌うのはこれがはじめてではないでしょうか。ベースは、鏡のように似ているふたりというところにあるのではないでしょうか。鏡像的というか、そういう段階でしか、透明感のある愛というのはないでしょう。いわゆる対幻想というのは、そういうものなのでしょうか。
マメシバ(PVで真綾が走っている。)なんかだと、うろ覚えですが、暗いところにいる彼を、私なら思うだけで救える、といっている。ほとんど、男の妄想(ソーニャみたいなの)を、ほらよと、投げているだけのような。この立ち位置でなければ、こういう詞を歌うのは、出来ないような気もするのです。


2008年04月18日(Fri)▲ページの先頭へ
アンティゴネー
アンティゴネーは、世界の中心でお兄ちゃんと叫んだ妹であった。
三部作の1オイディプス王(アンティゴネーは3)は、フロイトによると、男は、父を殺し、母と交わりたい(らしい)のですが、これをアレンジすれば、女は、父よりも兄が好きだといえるでしょう。古事記などを引用すれば箔が付くでしょうが、少女まんがなら、いくらでも例が見つかるでしょう。オタクは、お兄ちゃん、といって欲しがっているだと思われているかもしれませんが、たぶん、作例を遡れば、妹のほうが、お兄さま、お兄さまといい出したのではあるまいか。


2008年04月16日(Wed)▲ページの先頭へ
トライアングラー
<韓国ドラマでは三角関係とよく言います。でも実際は四角関係なんですよね。男女主人公とそれぞれを愛する男女のライバル。この4人がドラマの中心になります。>(注1)
しかし、これは三角関係の複合というべきであろう。欲望とは他者の欲望らしいですが、その他者が、相互に現実化したというか。
マクロスフロンティアは、真綾のOPトライアングラーからして、三角関係ですが、幼いほうのは、どうなんでしょうか。あれは、色気ないんじゃないかな。妹っぽいといえばそうですが(歌姫のほうはお姉さんっぽい)。
<しかし、スタッフロールを見るまでランカの声は真綾ちゃんかと思っていました…。EDもランカ役の人だし、似た感じの声の人を連れてきたなと。>(注2)
そんな、間違えるものかなあ。
(注1)カプチーノノート、韓国ドラマのキーワードB「四角関係」
http://blog.goo.ne.jp/capchanco/e/64502f0a8443700a57b02d4c9dd8fbf8
(注2)カズくんのオタおた日記:マクロスフロンティア
http://kaz9n.hp.infoseek.co.jp/works/macrossf/


2008年04月10日(Thu)▲ページの先頭へ
イメージ
ふた組の兄妹が織りなす四角関係というようなことを、いってみたわけですが、アニメで女の子が3人いれば、たいがい、イメージ的に母・姉・妹に重なる。これはアニメがいかに近親相姦的なメディアかを裏付けています。僕とこの3人は、四角で表示できる(注)。
true tearsも、3人ヒロインがいるけど、母を思わせるあいちゃんは、「そういうふうに見れない」であっけなく撃沈。ミサトさんが「やめてよ」の一言で退けられたのを思わせます。あとは、妹を思わせる乃絵、姉を思わせる比呂美の争いになるわけです。どちらを選ぶかは、趣味の問題でしょう。時代とともに、イメージの中心が、母から姉妹へ変遷したのだろう。
(注)次のサイトで、散々いっておいた。
http://rorino.blog23.fc2.com/blog-entry-8.html
http://rorino.blog23.fc2.com/blog-entry-9.html
http://rorino.blog23.fc2.com/blog-entry-19.html


2008年04月06日(Sun)▲ページの先頭へ
四角関係
ママレードボーイは、夫婦が、相手をそれぞれ交換するのですが、true tearsで行われようとしていたのは、兄妹が、相手をそれぞれ交換するということでした。一方は、兄妹でもなんでもないわけですが。これは、四角関係というやつなのでしょうか。関係は、三角が基本ですが(二人しかいなくても、取られるかもというのが常にあるわけです。)四角というのは、どういうことなんでしょうか。ハンターハンターの、ゴン・キルア・クラピカ・レオリオは、四角っぽい(遊幽白書も同じ。キャラはほとんど焼き直しなので)。それぞれ分身というか、なんというか。
これを仕組んだ主である、純に、13話では皆が謝ってゆくわけですが、相互に禁忌を避けるためというのであれば、この交換は、分からなくはない。ママレードボーイでも、異母兄妹ではないか、というのが出てきたのですが、夫婦の取り替えが、そうした考えを誘発するものなのでしょうか。遊君は、父親が誰かというのでも勘違いしたりして、なんともいいようがないですね。


2008年03月29日(Sat)▲ページの先頭へ
じべたのすごさ
シムーンでは、大人になるときに性別を選択できる(デフォルトは女)、性別を選択する
ことで大人になる。つまり、男/女と大人/子供という二つの線を、同時に越えなければ
ならない。
放浪息子でも、だいたい同じような二つの線が扱われ、かつ、線のとぐろの巻き具合が
半端ではない。しかし、シムーンは、線自体は静的である。
そして、女、子供という2つの第二項に留まることが、選択されている。ここで使われる
翠玉のリマージョンは、超越するための装置にも見えるものの、むしろ、彼女らは内在
することを選択している。
true tearsで乃絵が用いる、飛ぶ、とは彼女の台詞によると、世界を超越することのよう
である。飛ばないことを決めることが、飛ぶことと同じなのは、超越などありえず、
内在せざるを得ないことによる。じべたのすごさとは、こうした世界のありようを認識
しつつ、悠然としていることにあるのであろう。


2008年03月25日(Tue)▲ページの先頭へ
ゲーム的リアリズム
あいちゃん、三代吉は、自然主義的リアリズム、真一郎、比呂美は、まんが・アニメ的
リアリズム、乃絵、純は、ゲーム的リアリズムに属している(としておきたい)。
あいちゃん、三代吉は、じゃりン子チエに出てきても不思議ではない人たちである。
真一郎、比呂美は、まんが・アニメ的にありがちな幼なじみであり、思考の抽象度は
それほどではない。しかし、乃絵、純は、思考の抽象度がきわめて高く、現実との関係も
閉じている。これらの同じ地平への現れは、ストーリーを分かりにくくしたとはいえ、
失敗ともいえない。キミキスのように、ゲーム的リアリズムを、まんが・アニメ的
リアリズムに移行させただけのものとは、認識の差が歴然としている。


2008年03月21日(Fri)▲ページの先頭へ
ハイデガー入門と、ドゥルーズ入門と、ラカン入門を読みました
こんな、ハイデガー入門と、ドゥルーズ入門と、ラカン入門を読みました。
偉いでしょう。いや、入門だけでいいんですよ、みたいな、文を、
書き散らすことしかすることがない。しかし、人間、生きている限り、
何かせざるを得ない、例え、それが、無意味な文を、書き散らすことであった
としても。アニメは、ニヒリストのものなのだろうか。
ドストエフスキーのニヒリストは、どうしてか、みんなロリに向かっている。
しかし、超越的なものが信じられないから、生成的なものに向かうとしても、
それをニヒリズムということこそ、ニヒリズムなのである。生成こそ、
価値なのだとすれば。かわいいとは、生成の無垢のことなのである。


2008年03月17日(Mon)▲ページの先頭へ
日本の思想
シニフィアンしかないから、思想は、並べることにしかない。
日本の橋なんて、要旨は数行だが、いろんな橋につき、滔々と語られる。
枕草子が、その嚆矢だろうが、和歌集なんかも、並べてるだけだ。
しかし、極めつけは、遺書、美味しゅうございました、であろう。
あれを上まわる遺書はおそらくありえないと思われる。
川端康成などが絶賛したのも頷ける。これが日本の思想である。
円谷幸吉こそ、この国最大の思想家なのである。


2008年03月13日(Thu)▲ページの先頭へ
息をする名塚佳織
はあはあ息をしていた。
息をする名塚佳織。ここまで、息が感じられたのは、エヴァの20話くらいしかw
アニメとは、登場人物に息を吹き込むことではなかったか。
おっさんの、絡みつくような視線を感じた。


2008年03月10日(Mon)▲ページの先頭へ
万引きでも銃殺です
ホリエモンは、もう過去の人ですが、彼は経済犯などではない。彼のしたことは、万引き
くらいのものであるともいわれ、彼は、むしろ思想犯でしょう。
彼は、お金はSe(シニフィエ)だといった人です。それ以上のことは言っていませんが、
これが検察をはじめ、国の中枢を震撼させた。資本主義の世で、これほど当たり前の
ことはないようにも思われる。しかし、Seなど、この国ではあってはならず、彼や村上が
投獄されるとすれば、お金はSeだと、あっけらかんと言ってしまったことにあるのです。
北一輝が銃殺されたのと、同じようなものです。世が世なら、彼らも銃殺されていた
でしょう。万引きでも銃殺です。


2008年03月06日(Thu)▲ページの先頭へ
善悪の彼岸
善悪の彼岸とは、別に、善と悪の彼岸ではない。ニーチェは、そんなことをいっては
いない(らしい)。善悪の線の襞のようなものが、それだという。
リプリーは、善悪の線上を漂いつづける人物である。たしかに、人を殺したりもするし、
法が引く線は超えているが、にもかかわらず、彼が悪であるとは言い切れない。
放浪息子は、男女の彼岸の物語であるといえるかもしれない。女の子になりたい男の子と、
その逆が、男女の線上を漂う。もうひとつ、第二次性徴の線が加わることで、
男の子は男に、女の子は女になってゆき、そのすべてが、流麗な曲線で描かれてゆく。


2008年03月02日(Sun)▲ページの先頭へ
サクセスの秘密
朋ちゃんは、ピュアではないが、イノセントだと中原昌也はいっている(「サクセスの秘密」)。
例えば、ソーニャのような聖なる娼婦というようなひと(白痴といってもよいけど)は、
そういうふうにカテゴライズされるのではないでしょうか。
今の女の子は、ピュアというのはありえても(純(pure)なるがゆえに不純)、イノセント
というのは、ないような気がする。聖なるものからは遠いといわざるを得ない。
東京物語みたいなのはもはや作られないだろう。


2008年02月28日(Thu)▲ページの先頭へ
小さな記事も大きくすれば、違った何かが見えてくる
新聞マエストロなる人物が、「小さな記事も大きくすれば、違った何かが見えてくる」と
いっているのですが、別に本気で問いたいわけではありませんが、何が見えるのでしょう。
パネルは、思いッきりテレビが、思いっきり使って成功したと思うのですが(源流として、
やしきたかじんが、関西の低予算の中で編み出したのだとか…?)、改変で、パネル自体は
使わなくなり、似た効果を生み出すべく工夫している。朝ズバッもパネルだから先方が
避けた形でしょう…。
パネルは、一部を隠すことで、視聴者を引くことが出来るのが、メリットではないかと
思われます。新聞を読むときでさえ、何か隠すわけです。パネルとして、新聞を見た
というのは、ひとつの卓見なのかもしれません。
新聞を読んでるだけのテレビとは何なのでしょう。しかし、もはやテレビしか新聞を
読まなくなったというべきなのかもしれません。


2008年02月25日(Mon)▲ページの先頭へ
夏の妹
大島渚「夏の妹」は、沖縄返還の年に、それにぶつけた作品ですが、
沖縄を妹であるとするのは、鋭い直感だといえる。本土は兄なのでしょう。
従って、レイプ事件などの際の声は、「お兄ちゃん、妹がレイプされたって
いうのに、平気なの?」とでも変換しうるのでしょう。しかし、相手は、
父であるアメリカです。「そうはいうけど、父が相手じゃなあ。妹よ、君が
我慢してくれれば、兄さん助かるんだけどナ」というものでしょう。


2008年02月22日(Fri)▲ページの先頭へ
石動乃絵
石動乃絵は、どうやら自分の気持ちが恋であると気づいたようです。
女の子が、好意に似たもやもやした感情を、名づけ得ぬまま持っていて、それが恋だと
気づくという……少女漫画ですね。
恋愛は、あるフレームであって、感情はもう少し混沌としているのでしょうけれど、
そういうフレームがなければ、関係がちっとも進まない。
愛というのは、音読みしかないですが、恋には、訓読みもあります。
たぶん、恋は文字以前にあったものの、愛はなかったのでしょう。
恋愛はそれらとは違い、この国では、北村透谷のいい出したことでした。


2008年02月18日(Mon)▲ページの先頭へ
私、自分のこと正直だと思ってたし、ピュアだと思ってた。それだけが取り柄だと思ってた
「海でのはなし。」を見たのですが、スピッツの曲しか使わず、しかもそれがずっと
流れされていた。スピッツが好きだというのは、私ってピュアなんですというのと
同じです。最悪なのは、ミスチルがほんとに好きですとか真顔でいってる人です。
信じられないかもしれませんが、昔はけっこういたのです。まあ、ピュアなところは
あったほうがいいのかもしれません。「私、自分のこと正直だと思ってたし、ピュアだと
思ってた。それだけが取り柄だと思ってた」と宮崎あおいは、いっている。こんな
台詞は学生の自主制作でもいわれないでしょうから、そういうピュアなのを意識して
詰め込んでいるのだと思います。スピッツもそういうラインで使われてるのでしょう。


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