風子思考集成 - 2009

fuukoについて




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2009年12月27日(Sun)▲ページの先頭へ
サイハテ
フルカワミキ「サイハテ」(注)ということですが、どうですか?スーパーカーの人みたいです。彼女の声を基にしたボーカロイドが発売されたらしく、それで、ミクのカバー曲を出したということらしい。
ボーカロイドは、微妙なところから作るもので、フルカワミキだって…。たしかに、無機質な感じで歌う人ではあるけど。ミクの中の人なんて、名前忘れたくらい。あと、ランカリーは酷い。あれの“痛車”が山手線を走っていたけど、見てられない。
サイハテには、「もともと人間が歌うような曲じゃない」というコメントがニコニコに付いていたけど、たしかに、人間は、喪に服する曲を淡々と歌うことはしないのかもしれません。それを踏まえて、あえてカバーしたんでしょう。フルカワミキも、淡々と歌っていますが、しっくりとは来ていない。妙に色っぽくて、いいような気もしますが。
(注)http://www.nicovideo.jp/watch/sm8983068


2009年12月20日(Sun)▲ページの先頭へ
パラメーター
ドミニクチェンって人が、ユリイカRPGの冒険で、最近のFFは、パラメーターの調整とムービーだけだといってる。そして、これはわれわれの人生の反映だと。
たしかに。営業なんか、下らない本で知識を得、 笑い方とか学び(パラメーターの調整)、 「買ってください」(ムービー)。あるいは女。化粧して(パラメーターの調整)、男に会って、はあはあする(ムービー)。
こう考えると、ドラッグはダメとか(ダメ絶対とか)、いかにアホらしいかが分かる。もはや、パラメーターの調整しかすることはないのであり、手っ取り早くできるならそれがいちばん。あんまり強すぎるのは困るとは思うが、ちょっとしたものまで取り締まるというのはあまりにナンセンスであろう。


2009年12月13日(Sun)▲ページの先頭へ
人生終っている
今や、伊藤かな恵について語るときなのかもしれない。しかし、伊藤かな恵について語っている人はすべて、人生終っていると断定できる。けれども、人生終っているとはどういうことなのか、それを問うこともできる。意味の織物として社会を見れば、その外に出てしまっていることとでもいえようか。ホームレスの多くは、統合失調症らしい(注)が、社会の外に出てしまい、人生を意味により包摂できなくなったのであろう。伊藤かな恵ちゃんが好きだというとき、人生終っているというのは、かわいい子供が好きというのみならず、そのまなざしで大人をも見ており、出口が塞がれているからであろう。
例えば、宮崎あおいが好きというのであれば、最大公約数に過ぎないともいえる。木村カエラ(?)によると、嫌いな人はいないと思う、ということである。にもかかわらず、好きだ、と言いにくいのは、なぜか。少女の面影の残存していることが、その魅力の土台にあることは疑いなく、ロリであることが露呈してしまうからであろう。木村カエラが正しいとすれば、みんなロリコンというわけだ。
伊藤かな恵ちゃんは、まったくのところ、青二のちっちゃいのとしかいいようがなく、他に、あおいちゃんならばいえる表情が多彩だとか、そういった逃げ道は一切ない。表情の多彩さについていえば、モデルにはそういうのはないが、不機嫌そうに歩くのがモデルなので、しょうがないともいえる。かな恵ちゃんは、いつも笑ってはいるが、それだけである。怒っているかな恵ちゃん、泣いているかな恵ちゃん…。
ネットラジオで、動くかな恵ちゃんをそのまま配信するというような企画は、どう考えても無理があるものの(テレビではないが、ラジオでもないという)、見る人は見るのであろう。かくいう私もその一人ではあるが。
(注)《2009年9月2日付毎日新聞によると、ホームレスの6割以上が、うつ病や統合失調症など何らかの精神疾患を抱えていることが、久里浜アルコール症センターの精神科医師らの実態調査により明らかにされた》
http://www.kokoro-iyashi.info/archives/1295967.html


2009年09月26日(Sat)▲ページの先頭へ
相対評価
試験が難しいのは、学習内容が難しいからではない。中学入試を考えてみれば分かる。小学生の学習内容が難しいとは、普通はいわれない。しかし、小学生ならば中学入試の問いをみな解けるというわけではない。なぜか。学習内容から問題までは距離があるからである。その距離を埋めるため、解き方を知っていなければならないのは勿論だが、それを踏まえたうえで、その場での機転が求められる。この解き方をどう教えるかが塾の領分であるが、そこから先、どう機転を利かせられるかには、不確定な要素が漂う。相対的な頭のよしあしが、問われることになる。知っているべき知識の総量が少ないだけに、この部分のウエイトは大きいといわねばならない。宮台や東は、小学生のころ、何の準備もなしに全国模試を受けて、一桁の成績を取ったことを語るが、頭のよさとはこういうものだろう。
入試のような相対評価を競う試験では、解き方に加え、機転という要素が絡むため、教えても上手く行くとは限らないが、だからこそ塾が隆盛を極めることになる。どこまで行っても相対評価のため、どこまでもヒートアップすることになる。ここに塾が宿る。入試が全ての動機付けであり、入試がなければ日本の教育はない。学習内容を絶対評価するという趣旨ならば、こうした現象は生じないはずであるが、それでは動機付けに欠くだろう。
入試のための勉強は、入試にしか役に立たない。覚えたことの使い道などどこにもなく、もはや問題を解かなくてもいいのだからその解き方など忘却の彼方であり、機転といったものはその場限りでしかない。頑張ったことが財産になるという言い方はできるのかもしれないが、いかにも空疎ではある。
(10月、11月は、ネット環境にないため、休みます…。)


2009年09月20日(Sun)▲ページの先頭へ
入試
日本の教育システムは「中学」「高校入試」「高校」「大学入試」「大学」というふうに進んでゆくが、「高校入試」「大学入試」の果たす役割は大きい。「高校」の教育内容が「大学入試」を規定しているわけではなく、「大学入試」が「高校」教育を規定している。「大学」の教育内容に至っては「大学入試」とまったく関わりない。「大学入試」を規定するのが「高校」教育でも「大学」教育でもないのなら、一体何なのか。「入試」であることそのものでしかないと思われる。
「東大生のノートはかならず美しい」「東大生はどんな本を読んできたか」といった本が並んでいるが、東大生はノートなど取らないし、本も読まない。「大学入試」で覚えたことを片っ端から忘れ(それが出来るものだけが、東大に入れる。)それから何も学ばず、東大卒という肩書きだけで世を渡っていけるということだけが、東大に入る意味であった。


2009年09月13日(Sun)▲ページの先頭へ
エスモカ
エスタロンモカのパッケージには、「ねむけ・だるさに」って書いてある。自分の経験に照らしても、エスモカを飲むと、「ねむけ」が引くだけではなく、「だるさ」が除かれていくのを感じる。カフェインの他には、ビタミンB1,6,12しか入っていないのですが、「だるさ」の除去に関わるのどの成分なのだろうか。
思うに、人は「ねむけ」に打ち克つためにエスモカを飲のでしょうが、そのためには、カフェインで覚醒させておくだけでは足りないということなのだろう。「だるさ」を除去しなければならない。消極的ではあるが、「だるさ」がなくなると、少しくらいやる気が出てくるものだ。こうして物心両面に働きかけることで、ようやく「ねむけ」に打ち克つことができる。環境管理とは、身体(「ねむけ」)と共に、精神(「だるさ」)にも働きかけるものなのだろう。鬱病も薬で治るようだし、21Cはクスリの時代なのかもしれない。


2009年09月06日(Sun)▲ページの先頭へ
縮図
大西巨人「縮図・インコ道理教」は、「皇国」の縮図をオウム真理教に見ている。これによると、麻原は天皇に当たる。
渡部直己「不敬文学論序説」は、黙説法を鍵概念として、近代日本文学を語る。黙説法とは、ある物について語らないことで、何物かが存在すると思わせるレトリックらしいが、近代日本では、天皇に接近させると同時に、そのものについては語らせないことで、天皇制が作られていった。中心には何もないが、何もないと言わせないことで、何かがあると思わせること。
麻原裁判では、その語らせない対象である天皇に、何かを語れと強いるという顚倒が生じた。当然というべきか、麻原から意味のある言葉は聞かれなかった。アンダーグラウンドにおいて、被害者たちは概ね多弁である。オウム裁判でも、罪が軽い者ほど、必死で反省したものだ。しかし、中心に近づくほど、沈黙が増してゆく。
オウム事件では、天皇の率いる国家が日本中枢を襲ったばかりか、その後の裁判で、天皇が裁かれたわけで、天皇制が少なくとも変容していることは疑えない。
麻原裁判の意義は大きいといわねばならない。弁護団長である渡辺脩の「麻原を死刑にして、それで済むのか?」(注)は、お白洲を拒否したものと、野口武彦に評されている(朝日新聞の書評欄)。お白洲は、土下座しか許さない場所であるが、土下座においては、意味のある言葉を語ることも禁じられる。たしかに、麻原は、天皇だから当然というべきかも知れないが、意味のある言葉を喋らなかった。しかし、土下座もしなかった。こうした存在は、日本の法廷という場所そのものを震撼させたといっていい。
(注)村井指揮説が唱えられている。全て藤原氏が悪いというわけだ。


2009年08月29日(Sat)▲ページの先頭へ
スク水
「スクール水着の優位性」(注1)という現役高校生、崩条リリヤ先生のテクストを読んでみた。曰く、ビキニは、下着を連想させるので宜しくない、少なくとも清楚とはいえないだろう、だがスク水はそうではない。
思うに、スク水ほどラインがはっきり出る服装はない。スク水は、肌に密着しているためすべての体の線が明らかにされる。しかし、同時に、すべてが隠されている。ここからは、女子へのまなざしのありようが窺える。見たいことは見たい、しかし、清楚ではあって欲しい…。なお、拙稿「セーラーふくの論理学」(注2)は、ブルマとスク水の連続性に着目している。
スク水は、制服のひとつであり、紺という色合いもそこから来るのであろう。制服を着ているときまでが少女であると言い切っていいと思われる。高校を卒業してからは、一様の制服を着ることはもはやないが、彼女らは、お嬢さんではあってももはや少女ではなく、スク水を着ることは、特殊なシュチエーションでもない限り、ないだろう。広橋涼は、二十歳になっても着ていたらしいが。しかし、より考えさせるのは、川本真琴が、短大の入学式にセーラー服で望んだというエピソードであろう。
(注1)http://neetsha.com/inside/main.php?id=6447
(注2)http://rorino.blog23.fc2.com/blog-category-1.html


2009年08月22日(Sat)▲ページの先頭へ
使徒
日本の歴史は、もぐら叩きである。もぐらとは他者である。諺にもあるように、出る杭は打たれるのである。出る杭とは他者である。こうして、内部から、他者が現れない構造が出来ており、ゆえに非歴史の中を漂うことになる。(しかし、外部から、ときどき他者が現れる。渡来人やら黒船やらである。これらは、念入りに他者性を消去されていく。無事に非歴史に回帰するわけだ。)
エヴァの使徒は、大塚英志によると「「他者」みたいなものをアニメなりまんがなりのオタクの表現が初めて形象化した」(「だいたいで、いいじゃない。」)ものであるという。使途という他者が現れるたびに、それを殲滅してゆくわけで、これももぐら叩きであるといえよう。もぐら(使徒)叩きが終っても、人類自身使徒であるのなら(「とはいえ、私は一個の他者である」、アワーミュージックに引用されているレヴィナスの言葉)、それももぐらであるといわねばならない。人類補完計画が企図される所以である。
アスカは、作品世界の他者であり、首絞めも、もぐら叩きの延長と考えれば分かりやすいかもしれません。しかし、シンジは、いちおうはアスカと共にいることを望んだわけで、新劇場版がループだとすれば、その記憶(?)は残っているはずで、だから「やりなおすようにみんな全力でハッピーを目指してるって感じ」(東浩紀スレ287-905)になるんでしょう。しかし、人類補完計画は背後に残っているのですから、根本的には変わっていないともいえるでしょうし、変わってしまえばもはやエヴァではないともいえるでしょう。


2009年08月15日(Sat)▲ページの先頭へ
委員会
何が正しいかは法廷が決める、という考えがある。それは、あらゆる正しさを法廷が判断できるということを前提としているが、象徴界の失調は、そのような権威をもはや法廷に認めない。何が正しいかは、個々の委員会が暫定的に決めるしかない。薬害エイズの神話とでもいうべきものがあり、検察はその成功に酔っているのかもしれないが、法が専門家を裁けるなどというのは傲慢であろう。JR事故について、委員会がどうしょもないといっている箇所が起訴されているが、法廷が委員会の判断を覆したとしても、その正しさを認めなければならない理由はどこにもない。このような訴訟は無意味であろう。法廷も一つの委員会なのである。


2009年08月09日(Sun)▲ページの先頭へ
穢れ
のりピー…。覚せい剤で、アイドルのイメージは壊れるのであろうか。ミュージシャンなら別にどうということはないが、アイドルには苦しいとすれば、なぜなのか。分からないが、ピュアというのは、汚れ(穢れ)がないことであり、覚せい剤は穢れとして見られているのかもしれない。穢れが嫌われる文化圏なのであり、アイドルはピュアでなければならない。
しかし、ピュアを持ち上げすぎなのではないか。そういう名前の写真集は後を絶たない(清水香里でさえ、そういう名前の写真集を出している)。ピュアピュアなる雑誌まである。児童ポルノはサモトラケのニケよりも美しいということなのだろう。
ところで、華原朋美は、ピュアではないがイノセントではあると、中原昌也が評していた(「サクセスの秘密」)。ピュアとイノセントの差異を考えるに、例えば、ヴィスコンティの遺作がイノセントであることからも、西洋人がイノセントを好むことは窺えよう。


2009年08月02日(Sun)▲ページの先頭へ
地頭(その2)
高野隆氏は、「自白の現状に対して裁判官はあまりに無知ですよね。最も無知な人間が最大 の権力を持っている」(注)といっている。天皇(裁判所)は、地頭(警察)がいかに酷い ことをしているか知らないといいたいらしい。たしかに、彼らは世間については無知なの であろう。しかし、地頭(警察)の横暴については、むしろ目を瞑っているといったほうが正しい。法廷で自白の任意性をめぐる攻防は、幾度となく繰り返されているのである。
現状を知らないからという理由で、天皇(裁判所)は免責され、当然のように、国民は免責されていく。天皇が免責されたことで、国民が免責された(参照、柄谷行人「倫理21」) ように。しかし、地頭(警察)の横暴に耐える国民という構図は、疑われてもよい。無罪判決を怖れているのは、むしろ国民なのである。機能している裁判所にとって無罪判決など痛くも痒くもない。
(注)刑事弁護Beginners、現代人文社


2009年07月26日(Sun)▲ページの先頭へ
白シャツ
カレカノを見てると、女子の制服のほうにネクタイがあり、男子にはネクタイがないことに気づいた。気になったので調べたところ、現実にもそういう学校はあるようです。女子がネクタイをすることの意味も気になりますが、ここでは男子がネクタイをしていないことに注目したい。
思うに、ネクタイをしたシンジ君というのは考えられない。《エヴァの、夏の緑 白シャツの少年 危うい14歳 みたいな雰囲気が好き、って人に。『まぶだち』〔注、古厩智之監督、00年〕をお勧めする。不良にも優等生にもなれない屈折した少年たちの静かな青春。飄々としている主人公が格好良い》(エヴァヲタの好きな映画468)。「危うい14歳」は「白シャツ」という表象に支えられているといっていい。そこにネクタイはない。ネクタイは、半ば拘束具のようなもので、14歳の危うさを殺いでしまう。ちなみに、あむちゃんもネクタイをしていますが、伊藤かな恵は自分でネクタイを結べませんでした(注)。
(注)ボイス オブ エーアンドジー デジタルかな#29(2008.10.07)


2009年07月19日(Sun)▲ページの先頭へ
地頭
検察が起訴すれば、ほぼ100%有罪で、量刑は8掛け。これでは、事実上検察がすべてを決めているといってよい。無罪判決はお飾りである。実際、高裁で紙切れのように破棄される。このように検察が事実上裁いているのにもかかわらず、なぜ裁判所が存在するのであろうか。
検察はいわば藤原氏であり、裁判所は天皇である。検察批判が常に空虚なのは、天皇(裁判所)批判を伴っていないからである。裁判所が機能していないことを見逃してはならない。もっとも、裁判所も一定のテリトリーを有していることは否めず、最高裁は院政のようなものといえるかもしれない。なお、警察は地頭であろう。
刑事裁判において、弁護士はお飾りである。周知のとおり、彼らが何をしても意味はない。自白があれば有罪とされ(日本版自白法則。自白法則は、日本では、この意味でしか存在しない)、かつ、地頭たる警察があらゆる方法を用いて自白させているので、もはやどうすることもできない。
日本の刑事司法は精密司法ともいわれるが、それを支えているのが、この自白法則および何としても自白を得るための地頭による暴力である。精密であるからといって、暴力的でないなどと考えてはならない。上層は手を汚さないが、それは下層の暴力があってこそである。こうして現れる司法の総体は、カフカの小説に出てくる処刑機械を連想させる。地頭、藤原氏、天皇という3つの部品からなる機械が、被告の体を切り刻んでいく。


2009年07月14日(Tue)▲ページの先頭へ
ひどいこと
カレカノを、破の余波で、見てみたけど、シンジとアスカのそれからみたいな感じだから、作ったんでしょう。今さらながらな感想ですが…。アスカっていいですよね。ひどいことをしたくなる感じのおんなのこだ。破でもひどいことをされてましたが、それでこそアスカというもの。
宮沢雪野はエヴァのキャラのなかではアスカっぽい。有馬君は、どうなのか。シンジではないか…。
外キャラとかいってると(そういってはいないが)、しゅごキャラになってくる。
第1声である「私は人の目にどう映るのだろうか。」というのは他者指向ではあるけれど、どう見えるかというだけであり、彼氏彼女はそこから離れ、全人格的な承認に至る感じではある。この辺、エヴァっぽくあり、学園エヴァといっていいのかもしれない。


2009年07月06日(Mon)▲ページの先頭へ
サンタフェ
サンタフェ(宮沢りえ、17歳の時に撮られた)が児童ポルノであるというのは、理解しがたい。例えば、ルイスキャロルは、割れ目の入った少女を撮っているが、欧米でそれが発禁になったという話は聞かない。芸術性を考慮して、(規制するにしても)それなりに妥当な運用がなされているのであろう。篠山紀信が芸術的かどうかは、争う余地があるかもしれないが…。しかし、この国では、運用に期待することはできない。それは、わいせつの判例を見れば、よく分かる。最高裁が採用するのはチャタレイ夫人を有罪にできる基準であり、限定機能は一切ない。そこで、訴追する側の運用に委ねられるが、その運用の恣意性は周知のとおり。
17歳が「児童」というのも不思議ではある。高校生や中学生を好む人はロリコンなのだろうか。初潮を迎えている高校生や中学生が、性的な存在であることは否めない。肌を露わにする機会は多いはずだ。従って、問題は、しょうがくせいに限られよう。意味の消尽した現在において、商品といえるものは、しょうがくせい以外に存在しない。そして、服を着せていれば、性的でないというわけでもない。苺ましまろやガンスリンガーガールが、児童ポルノと同じまなざしで見られていることは疑いない。服だけでは足りないのだ。しょうがくせいには、イスラムの女のように、ベールでも被せるべきなのかもしれない。


2009年06月29日(Mon)▲ページの先頭へ
もぐら叩き
山田花子はこういっている。「人は数々の苦しみを乗り越えて、いつか目的地に辿りつけるという幻想を抱いているが、一つの苦しみが終わったらまた別の苦し みがやってきて、死ぬまで続くだけ」(「自殺直前日記」)。これを煎じ詰めていえば、「人生はモグラ叩きだ」(田口賢司「メロウ」)ということになるだろう。対処しなければならない出来事が、もぐら叩きのもぐらのように次々と現れるが、総体としての意味は欠如している。
刑事裁判は、犯罪人をもぐらとする、もぐら叩きといえよう。そして、もぐら叩きはいつまでも終わらない。裁判をいくら重ねても、犯罪は変わらず行われ、またしても裁判が行われる。デスノートのキラの行ったことは、もぐら叩きを終らせるためのもぐら叩きである。あらゆる犯罪の刑罰を死刑とすれば(しかも、逮捕後直ちに)、たしかに犯罪は行われないかもしれない。
日本では、諺にもあるとおり、「出る杭は打たれる」のであり、異質なものは排除ないし抑圧されるが、これももぐら叩きの要領であろう。「打たれる」と受動態でいわれるが、打っているのはもちろん自分たちである。佐藤心ふうにいえば、オートマティズムが機能しているので、自分たちが打っているという自覚さえない。キラはこうした風土のありようと切り離せないともいえる。


2009年06月22日(Mon)▲ページの先頭へ
3番目
ヱヴァ:序で、まだ3番目か、とカヲル君はいっていた。1番目はテレビ版、2番目は劇場版、3番目は新劇場版ということで、3度目の終局が語られることになるのだろう。ちょっとづつ成長しているということなのかもしれない。1番目は、自己啓発セミナーふうの承認を得る、2番目は、他者のいる現実を認める(少し成長した)、3番目は、その現実の中で何とかやってゆく、というふうに。
エヴァは中二病の古典ですが、ウエダハジメ「Qコちゃん2」に「十五歳以上の老人は要らないそうですよ」というセリフがあった。十四歳は、中二病に罹患するが、それが治癒すれば、大人ではなく、もはや老人なのだろう。


2009年06月15日(Mon)▲ページの先頭へ
子供とは何か
《大人が読んでもおかしくないような、小学生が主人公の恋愛漫画を教えてください》(注)という質問に対して回答が公募され、ベストアンサーとして、山田南平『オトナになる方法』(文庫全8巻)が選ばれている。
このような問いはなぜ問われるのであろうか。つまり、なぜ、大人が小学生が主人公の恋愛漫画を読みたいのか。ショタやロリが昂じて、そういうのと恋愛してみたくなったからであろうか。それではあまりに身も蓋もない。
小学生の恋愛は、恋愛の起原とかかわるものと考えよう。デリダはこういっている。「子供とは何かということがわからないかぎり、あなたには、幻想とは何ということもわからず、もちろんその結果として、知とは何かということもわからないだろう」(「郵便葉書」)。幻想や知は、子供を起原としているのであり(?)、もちろん、恋愛という幻想もそうである。
「われわれは子供時代の記憶と客観的に観察しうる子供を知るだけで、もはや子供の意識を内側から経験することはできない」(柄谷行人「意味という病」)ということもできるが、精神分析は、子供の意識を見てきたかのように語るものだ。
(注)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010343200


2009年06月07日(Sun)▲ページの先頭へ
1Q84
1Q84を読んでみた。ふかえりという少女が書いた小説を、編集者に乗せられリライトする男の話と、DV男を殺している女の話が交互に語られ、この二つが、新興宗教がらみで交わっていき、終盤は、この男と女の「純愛」。自分の知らないことが過去に起こっており、別の「現在」に迷い込んだことが分かる、そこは、月が二つある世界、というようなあたりは、不思議な感覚でした。全文3人称で書かれており、世界の終りのように二つとも1人称というわけでも、カフカのように交互に1人称と3人称というわけでもない。
今まででベストの村上論は、柄谷によるそれでしょうが(というより、ほとんど柄谷のしか読んでない)、自分の主観から世界を構成するありようは、自己完結しており、他者がいない、というようなもの(?)でした。これは正しい。カントを用いているわけですが、カントには物自体という他者がいるというようなことを柄谷は言い出すわけですが、村上も記号の底(?)に物自体といっていいような他者を見出していくわけですが(国境の南、ねじまき鳥)、その先はしかし、迷走しているのでは。おそらく、主観から世界を構成していることには違いはないため、他者を見出したところで、その先はないのかもしれない。80年代に1人称で語ったものを、3人称で語り直そうということなんでしょうが、どうなんでしょうか…。3人称というのにそぐわない作風という気がしないでもない。


2009年06月03日(Wed)▲ページの先頭へ
かな恵ちゃん
伊藤かな恵スレ(注)によると、相沢舞、伊藤かな恵、中原麻衣は、みんな他人に対して壁をつくるタイプだが、それぞれタイプが異なる。相沢は、自分に自信がないので自虐に走る、かな恵ちゃんは、ナルシスト、中原は、他人に無関心。
心理学を齧った人なのか、ちょっと類型に押し込めすぎとは思いますが、おおむね正しいのかもしれない。かな恵ちゃんは、自分に自信はあるのでしょう。「大して私とあむちゃんは変わらないと思うんですよ」(超ラジ#50、2:05ころ)といってますし。
「子供は子供が嫌いだもんね」(志村貴子「楽園に行こう」)というのは慧眼で、そういう理由なら僕も、子供は嫌いといわざるを得ないのですが、苺ましまろとかは好きなわけで、こういう事態は、子供とガキを分けて考えると分かりやすい。つまり、「ガキなき子供」とでもいうのを想定できるなら、それは好きなわけで、かな恵ちゃんみたいな感じの大人は、かえっていいのかもしれない。(注)伊藤かな恵 part5
902 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/25(月) 15:15:41 ID:Xlj0dMoA0
相沢さん、かな恵ちゃん、中原さんは、みんな他人に対して壁をつくるタイプだけど、分析的に見るとそれぞれタイプが違う。
相沢舞さん→典型タイプ。自分に自信がない・人に対する不信・恐れ・不安感が心の根底にあり、他人と打ち解けるのが苦手。ゆえに自虐的な言動で人を笑わせることが多い。
かな恵ちゃん→ナルシズムが心の根底にある。振る舞いや言動におバカさんなキャラを見せるが、傍からどう映ろうと、本人のなかでの自分自身に対する自信は意外に大きく、時折見せる感傷的なポエムやアーティストの歌詞の引用などは、自身の魅力のアピールでもある。
中原麻衣さん→人に対するアパシー(apathy)が彼女の心の根底にある。アパシーとナルシズムは往々しにして同居することが多いが、彼女の場合は基本的に、他人へ自身の魅力のアピールすることはなく、単に人に対する無関心的側面が強い性格。
結論としては、相沢さんは、彼女が自虐することを煽ってくれるパートナーでないと笑いは生まれず、かな恵ちゃんは、彼女に合わせてあげる人がいないと自身のキャラがアピールされず、中原さんは、パートナーによってではなく、コーナー・企画などに面白さがないと、ラジオはとてもシュールな雰囲気に陥る。


2009年05月27日(Wed)▲ページの先頭へ
のぞみちゃん
大橋のぞみちゃんはしょうがくせいですが、まったく計算せずにあれができるとは、思わないだろう。そうであれば、普通のしょうがくせいをテレビに映してもああなるはずですが、絶対にそうはならない。映されていることが影響するからで、映されてるのに映されてないように振る舞わねばならない。それは別に、超自我が命じるというわけではなく、自我が自らそうするように反省しているのである。そうすることによって、彼女の中の動物的なものを動かしているといえる。大橋のぞみちゃんの地の部分が出てきている。ここでは、動物的なものを計算によってコントロールしている。こういうのは、エレクトロニカとかを思い浮かべれば、分かってもらえるだろう。というか、最初から、そっちの話をしていればもっと分かりやすかったかもしれない。動ポモは、テクノ等を使ったほうが、同じ論旨をもっとクリアに説明できただろうともいわれる。エレクトロニカ(の源流めいたもの)でいえば、嶺川貴子の「CLOUDY CLOUD CALCULATOR」は、動物的なもの(CLOUDY CLOUD)を計算してる(CALCULATOR)さまがよく伝わってくる。


2009年05月20日(Wed)▲ページの先頭へ
けいおん
けいおんは気に入っておる。まあ、澪(みお)とか。らきすたでは、かがみが好きじゃったから、まあ、当然かもしれんが。ハルヒにはラノベ的、SF的な意匠があったし、らきすたにはオタク的な意匠があったもんじゃが、けいおんは、なんもそういうのがない。きわめて純化されておるといってよいじゃろう。どういうものにかというと、今ここといったものにじゃ。ユートピア論者サミュエル・バトラーのいうエレホン(nowhereを逆さにしたものじゃが)は、no-whereというだけではなく、now-hereのことでもあると、哲何には書かれておる(邦訳143頁)。今ここしかない、それゆえに、どこにもない場所ちゅうのが(それが、日本という場所なのかもしれんが)、けいおんであるといってよいじゃろう。部活ちゅうのも、昔は、私を甲子園に連れて行けとか難儀なことをいわれたもんじゃが、そういう場所はもうないんじゃな。


2009年05月14日(Thu)▲ページの先頭へ
ボート屋
古谷実「ヒミズ」では、ボート屋という仕事が、主人公に与えられている。何もかもが終わったあとで、どう生きていけばよいのか、というテーマの物語において(ヒミズは、大体そのような作品であろう)、鄙びたボート屋という仕事は、その主人公に打ってつけといえる。ボートを貸すだけで、後はじっとしていてよい。ボート一つにつき、一時間八百円は取れるだろうから、それだけでコンビニでレジ打ちしているのと同じだけ儲かる(池は自分のものらしいので、ボートのほか、元手はかかっていない)。そして、毎日が同じ繰り返し。これが、よしもとばななふうの幸福な終末観とはまた違った、終末の風景であることは疑いない。
エウレカについて、「人類が滅亡してもコンビニが通常営業してそうな世界観」(注)だというのは正しい。郊外とは、そのような世界であろう。
(注)エウレカセブンは最低視聴率0.7%の糞アニメ61-187


2009年05月08日(Fri)▲ページの先頭へ
めんどくさい
古谷実「グリーンヒル」は、人類最大の敵はめんどくさいであるといっている。めんどくさいというのは、解析すれば、○○すべきである、という当為がありながら、○○したくないので○○しないという不作為への傾斜であり、それは、○○することへのわずらわしさに由来しているといえるでしょう。部屋の片付けのように自分だけに関わる事柄であればそれでもよいが、問題は、他者に関わるところでも、めんどくさいという感情は否応なく噴出するということであろう。親しい人であればともかく、それほど親しくもない人に対して、施しをしようなどと思うだろうか。応答責任などという、見てしまっただけで責任があるというような律儀な考えは、めんどくさいの前には風前の灯といえる。だからこそ、めんどくさいは人類最大の敵とまでいわれるのであろう。


2009年05月03日(Sun)▲ページの先頭へ
氾濫
エヴァやナデシコのころは、歴史と非歴史の境目あたりにいたのかもしれない。あらゆる記号が投入されていたとはいえ、メタアニメであることは志向されていた。ドン・キホーテが、表象の世界に入っていたにも係わらず、類推から世界を見ていたように、非歴史に入りつつあることを、歴史から見ていたといっていいのかもしれない。しかし、ヒミズのころには、非歴史に入ってしまっており、時代が進んだといっていいのかもしれない。アニメでいえば、98年は、CCさくらやlainが放映され、萌え記号が氾濫しだした年なのだろう(断層があった)。時代を区分するのならば、見田宗介のように、プレ高度成長、高度成長、バブル崩壊まで、金融危機まで、というふうに経済の区分に即していれば批判しにくいですが、その間の断層は(小さいものではないとは思いますが)、作品に即して見ていくしかないのかもしれない。


2009年04月27日(Mon)▲ページの先頭へ
おんなのこ
68年は、象徴界の失調が決定的となった年とされる。その後、一時ではあるものの、現実が露出することになるが、それはおんなのこにも見られ、これは見逃せない。標語ふうにいえば、“おんなのこはおんなのこである”。映画でいえば「都会のアリス」や「ミツバチのささやき」に出てくる少女のかわいさ。しかし、虚構(記号、篠山紀信的なもの)が現実を覆うことで、こうしたリアルなものは退いてしまう。
しかし、あおいちゃんのころになると、リアルなものが再浮上してくる。子役は大成しないというような通念は、この世代には通じない。大きくなっても、リアルで生々しい部分が温存されているからであろう。「苺ましまろ」がなぜ危ういかといえば、萌え記号に覆われているからではなく、この次元に到達しているからではないか。


2009年04月21日(Tue)▲ページの先頭へ
あおいちゃん
しょうがくせいっぽいっていうのは、いる。伊藤かな恵とか(昔の)広橋涼とか、声優でいえばだけど。身近に(?)そういう人がいて、生々しい部分、幼い感じを残しつつ、みたいな。この人が好きな人は、宮崎あおいとかも好きだろうな、みたいな。今なお、人の前であおいちゃんが好きっていうのは、いいづらいものがある。それは、こういう生の部分へのアフェクションは危ういものでありうるからであろう。


2009年04月15日(Wed)▲ページの先頭へ
唐突に
喰霊1巻を見てみたんだけど、1話で虐殺めいたことが行われ、放映時、大分インパクトを与えたみたいです。それで、ガンパレードマーチの6話くらいで、Aパートは平穏だったのに、Bパートで突如主要なキャラを死なせていたのを思い出した。そういう出来事にも係わらず、それからはラブコメになっていた。唐突に人を殺してみるのは、何かあるかも、という不安(?)を抱かせる手法といっていいのかもしれない。ラブコメが突如中断されるかも知れず。物語として見れば、意味はよく分からない。ラブコメが、戦争に侵食されていくのであれば反戦的な色彩を帯びるであろうが、その逆は…。


2009年04月09日(Thu)▲ページの先頭へ
ニートピア
おくりびと(見てないけど)のヒットは、人々が死を見つめようとしていることを示しているらしいです。近年、死を見つめた作品は多い。古井由吉「野川」は、語りえないはずの死を語ろうとしていると、高橋源一郎はいっていた。安倍吉俊「回螺」は、死の瞬間を微分して生じた、死しかない世界を描いている。
いずれ死ぬことことを自覚することで、自分の生を見つめなおそうというようなハイデッガーふうの殊勝な心がけなど、もはやなく、もはや死によって浸された現実には抗えず、語るべきものは遍在する死しか残されていないという状況が窺える。
中原昌也「放っておけば、やがて未来」(「ニートピア2010」所収)は、死んでからのことは誰にも分からず、死体は絶対的な無気力に陥っているだけで、いつか新しい何かが死体から生まれるという奇跡が起こるかもしれないという理由から、死体をいつまでも観察しようとする。中原版「おくりびと」といえるかもしれない。ニートは死んでいるようなもので、それを自分で見ているということかもしれない。


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