風子思考集成 - 2009/01

fuukoについて




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2009年01月29日(Thu)▲ページの先頭へ
ネタ
ストパンとギアスR2が、去年の9月に終わったわけですが、このふたつはネタアニメを、極めていたといっていいと思う。ギアスなんて、ネタをつないだだけじゃないのかという感じだったし、ストパンは、ネタだけど、それと萌えを不可分な形で融合させており、実際、あれ以上の、萌え/ネタアニメというのは、ちょっと想像できない。00年代のメインストリームは、萌えと2ちゃんねる経由のネタにあったといっていいかもしれないですが、この二つを同時に臨界まで持っていくことで、終わらせたといっていいくらいの過激さはあったと思う。ストパンの先を行くアニメというのは、少し想像できない。ギアスは、セカイ系といわれる思考の中を動ける限り動くことで、それを自壊させた。どこに出たのかは、分からないけど。何かが終わったという感が漂っていることは否めない。


2009年01月23日(Fri)▲ページの先頭へ
存在が浮いている
沢城みゆきと福井裕佳梨は似てると思う。いつも微妙に浮いてるところ。ふくうち ◆.YUKAuj4c.は、沢城が浮いているのは、技術的なところから入っているからだといっていますが、沢城は、所属劇団の人たちと喋ってるときでさえ、声は浮いている(注1)ので、おそらく存在が浮いている。植田佳奈が、本物の(?)天然はゆかりんだけ、と性悪ぶりを発揮していっていたけど、この浮き方も、多分それ。「私が実る木の下で」は、通しで聴くと、かなり(3曲目くらいから)気分が悪くなることは請け合いです。ポニョとか歌ってる姿は、幸せそうですが(注2)。
(注1)http://dangofan.seesaa.net/article/112693605.html
(注2)http://jp.youtube.com/watch?v=9LSdEGNu9dk&feature=related


2009年01月17日(Sat)▲ページの先頭へ
人間の条件
本田透とか鶴見済とかは、人間の条件から遠く離れようとしている。超人というのも、素朴に考えればそういうものかもしれない。一人で、森の中で動物たちと暮らすというのは、複数性(人間の条件)から外れている。意味や価値は一人で作り出すものだ。それまでの哲学には、意味も価値もなかった(「ニーチェと哲学」)。
本田透や鶴見済は、現実/虚構/身体(身体は、もう一つの、人間の条件であろう。)を組み替えることで、人間であることを克服しようとした人といえよう。それぞれ、その時代のリミットをなす思考である。
鶴見済は、現実からいつでも(楽に?)離れられる方法を用意することで、現実を対自的に見る(「完全自殺マニュアル」)。そして、そうして見られた現実の苦しさを、クスリを用い、身体に訴えることで逃れようとする(「人格改造マニュアル」)。本田透は、あまりに殺伐とした現実を前に、「自殺するなら、引きこもれ」といい、虚構に引きこもる。身体の充足には、バーチャルな彼女を用いる(「萌える男」)。


2009年01月11日(Sun)▲ページの先頭へ
恋の理論
しかしエンマは、自分の正しいと信じている理論通りに恋を感じようとした。(ボヴァリー夫人・フローベルより)
ヘテロセクシャル・岡崎京子より、孫引き。完璧な引用といっていいでしょう。一行でボヴァリー夫人を要約すれば、ここになるのではないでしょうか。19世紀小説を一行で要約しているといっていいかも知れない。
この「恋の理論」は、どこから来ているかはわかりませんが、近代の産物といっていいのかもしれません。だから、ポストモダンになれば、維持できないのではないでしょうか。
本田透は、バーチャルの時代(注)の旗手であったことは間違いないでしょう。彼の思想は、「彼女はバーチャルでいい」というものです。彼女はいらないといっているわけではない。リアルの女たちは、もはや「恋の理論」からは逸脱しており、そういうのはバーチャルの世界にしかいない。しかし、バーチャルの世界には、人肌の温もりはなく、リアリティへの飢餓感は拭えない。
(注)見田宗介が「虚構の時代」の次の時代を命名した。朝日新聞、2008年12月31日付。


2009年01月05日(Mon)▲ページの先頭へ
中古
《もともと処女性とは後生大事にいつまでも保持しつづけるわけにはいかないものであり、したがってそれは、失われ無くなることによって、これまで処女だったことの証となるはずのものなのだ。》(フォークナー「アブサロム、アブサロム!」篠田一士訳)
かんなぎといえば、中古騒動ですが、かんなぎDVD第1巻に、中古というシールが貼られているところなど、哀しいものでした。しかし、フォークナーのいう通り、処女性とは、非処女によって、遡及的に見出されるものでしかない。処女には、処女性は分からないし、もちろん、男にも分からない。
ひとたび線を越えると、もはや引き返せないのであり、中古という言葉の厳粛な響きはそのことを表している。つまり、一度でも使えば、中古ということになってしまう。中古だから価値がないというようなことはいえないが。
非処女は、もはや処女とは、質的に異なった存在であろう。非処女は、もはや、処女と同じように思考することはできない。処女も、非処女のようには、思考できない。従って、その線はどういうものか、処女にも非処女にも、分からない。
そして、ある線を越えたものは、その線の越え方になど、もはや興味を持たない。非処女は、処女には戻れないのだから、そんなことを考えても意味がないのである。むろん、線を越えることが、常に悪いわけではない。線を越えなければ、先には進めない。越えて行かなければ、朽ちていくだけという線もあるのだ。


   


人手です。

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