風子思考集成 - 2009/01/05

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2009年01月05日(Mon)▲ページの先頭へ
中古
《もともと処女性とは後生大事にいつまでも保持しつづけるわけにはいかないものであり、したがってそれは、失われ無くなることによって、これまで処女だったことの証となるはずのものなのだ。》(フォークナー「アブサロム、アブサロム!」篠田一士訳)
かんなぎといえば、中古騒動ですが、かんなぎDVD第1巻に、中古というシールが貼られているところなど、哀しいものでした。しかし、フォークナーのいう通り、処女性とは、非処女によって、遡及的に見出されるものでしかない。処女には、処女性は分からないし、もちろん、男にも分からない。
ひとたび線を越えると、もはや引き返せないのであり、中古という言葉の厳粛な響きはそのことを表している。つまり、一度でも使えば、中古ということになってしまう。中古だから価値がないというようなことはいえないが。
非処女は、もはや処女とは、質的に異なった存在であろう。非処女は、もはや、処女と同じように思考することはできない。処女も、非処女のようには、思考できない。従って、その線はどういうものか、処女にも非処女にも、分からない。
そして、ある線を越えたものは、その線の越え方になど、もはや興味を持たない。非処女は、処女には戻れないのだから、そんなことを考えても意味がないのである。むろん、線を越えることが、常に悪いわけではない。線を越えなければ、先には進めない。越えて行かなければ、朽ちていくだけという線もあるのだ。


   


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