風子思考集成 - 2009/03

fuukoについて




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2009年03月27日(Fri)▲ページの先頭へ
クラナドの最終回には唖然とさせられた。それまで、人生とか言って、曲がりなりにも現実的(?)に進んでいた物語が、一転、エヴァを思わせるメタなものになってしまう。
ゲームはやってないので分からないのですが、どうやら、渚は街と繋がっているらしく、街が不幸だと死に、街が幸せなら、生き延びることが出来る(注1)。第1期は、渚一筋であり、かつ、周りの人を幸せにすることに重きが置かれていて(注2)、このルートだと、渚は死なずに済むはずである。従って、出産のところから、最終話まで飛ぶ。渚が死に汐も死ぬのは、1巡目ということで、それまでの時間と連続していない。こういう悲劇を避けるために、街中が幸せになるように、2巡目をプレーしてくれということらしい(第1期は、この2巡目)。一つの時間が流れているというふうに見えるけれど、それは、いわば叙述トリックということのようです。ある意味、画期的かもしれない。
最終回までは、時間が連続しているとばかり思っていましたし、それで物語としておかしいわけでもない。この点を示したことは、期せずして内在批判となっている(?)。
(注1)渚はネットワークそのものを具象化したものであり(岩倉玲音みたいなもの(?))、ネットワークが良い状態なら生き、悪い状態なら死ぬということらしい。
(注2)だいぶ昔に書いた印象は、当たっていたのかもしれない。
http://fuuko.noblog.net/blog/10479786.html


2009年03月20日(Fri)▲ページの先頭へ
する
宇野常寛「ゼロ年代の想像力」には、人がキャラ化しているとされることについて、「である」ことへの回帰であるとして批判し、「する」ことによる承認を目指すべきである、とする箇所があったと記憶しています。今さら丸山真男なのか、という感じもしますし、あるいは、今だからこそ読むべきなのかもしれませんが…。
しかし、「する」ことに価値があるというのは、疑う余地もあるのではないでしょうか。 近代では、今というのが見失われているというのは指摘されるところです(真木悠介「時間の比較社会学」)。例えば、工場で働く(ことを「する」)のはお金のためであり、工場で働くこと自体は目的ではない。何かのために「する」のであり、「する」こと自体が目的というわけではない。今・ここではないものによって意味づけされていなければ、「する」ことに価値はない。「する」ことは、それ自体としてはちっとも楽しくない。


2009年03月13日(Fri)▲ページの先頭へ
噫無常
小森健太朗「英文学の地下水脈」は、黒岩涙香の原典を探してるんだけど、噫無常と岩窟王を除くと、見事に残らない作品ばかりを翻案してるみたいです。この残っていない作品群から、新しい探偵小説観を構築しようという試み。
どうも、歴史的に見て、女流作家は、中盤のサスペンスから入り、謎と解決というのは後から挿入していったみたい。志村貴子なんかは、中盤のサスペンス(?)だけで作品を成り立たせているのかもしれませんが、もともと女流とはそういうものなのか。「奇妙な英米文学」(アンチオイディプス)といわれるものの系譜に探偵小説があることは疑いなく、探偵小説を、嵐が丘とかアリスとかと併置するような視座は、有用かもしれない。


2009年03月06日(Fri)▲ページの先頭へ
NO!!WAR
三田格のスレがあってもいいじゃないかその2(注1)を、テクノ板で見つけた(社会学板にも、なぜか彼のスレがあります)。
彼(や野田努)は、イラク戦争に対して、NO!!WARという抵抗を試みた。西村大介は、彼らの抵抗には批判的で(注2)、マクロス7(「戦争なんてくだらねぇぜ、それより俺の歌を聴け」)だけが戦争を批判できるんだ、と言っている。
三田格のモストフェイバリットであるフィッシュマンズの「新しい人」は「グルッと見回せば 何にもない」といってるけど、イラク戦争(や凹村戦争)は、そういう中での戦争であろう。世界から意味が消尽しており、テロと同じく、対テロ戦争(といわれる戦争)にも、意味が見当たらない。仮に対象破壊兵器が存在したとしても、イラク戦争をする意味はどこにあったのか。こうした状況下での戦争を批判できるのは、「みんなが夢中になって 暮らしていれば 別に何でもいいのさ」(「幸せ者」)というような思想しかない、というのはその通りかもしれない。
(注1)http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/techno/1130913030
(注2)で、『凹村戦争』は、一つは新海さんを始めとしたセカイ系的なものに対するアンチテーゼなんですが、もう一つに、いわゆる9・11、イラク戦争前後における政治的なもののたかまりに対してのアンチでもあるんです。いちばん大きいのは河出書房新社の『NO!!WAR』なんですけど、アレを僕はダメだと思ったんです。いいけど、ダメっていうか。僕はガイナックスと同時に、1990年代のテクノシーンにもかなり感化されていますから。要するに結局のところは野田努とか三田格とかあそこらへんの人たちが、戦争が起こったときに、レイブ・パーティーやクラブで騒ぐかわりに、戦争を持ち出して一回騒いだだけだって思っています。『現代思想』とかに載った後日談とかを読むと、ああやってよかったなみたいな話に落ち着いちゃって……あれ?それで終わりなのって。
東浩紀『コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル』青土社


   


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