風子思考集成 - 2009/05

fuukoについて




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2009年05月27日(Wed)▲ページの先頭へ
のぞみちゃん
大橋のぞみちゃんはしょうがくせいですが、まったく計算せずにあれができるとは、思わないだろう。そうであれば、普通のしょうがくせいをテレビに映してもああなるはずですが、絶対にそうはならない。映されていることが影響するからで、映されてるのに映されてないように振る舞わねばならない。それは別に、超自我が命じるというわけではなく、自我が自らそうするように反省しているのである。そうすることによって、彼女の中の動物的なものを動かしているといえる。大橋のぞみちゃんの地の部分が出てきている。ここでは、動物的なものを計算によってコントロールしている。こういうのは、エレクトロニカとかを思い浮かべれば、分かってもらえるだろう。というか、最初から、そっちの話をしていればもっと分かりやすかったかもしれない。動ポモは、テクノ等を使ったほうが、同じ論旨をもっとクリアに説明できただろうともいわれる。エレクトロニカ(の源流めいたもの)でいえば、嶺川貴子の「CLOUDY CLOUD CALCULATOR」は、動物的なもの(CLOUDY CLOUD)を計算してる(CALCULATOR)さまがよく伝わってくる。


2009年05月20日(Wed)▲ページの先頭へ
けいおん
けいおんは気に入っておる。まあ、澪(みお)とか。らきすたでは、かがみが好きじゃったから、まあ、当然かもしれんが。ハルヒにはラノベ的、SF的な意匠があったし、らきすたにはオタク的な意匠があったもんじゃが、けいおんは、なんもそういうのがない。きわめて純化されておるといってよいじゃろう。どういうものにかというと、今ここといったものにじゃ。ユートピア論者サミュエル・バトラーのいうエレホン(nowhereを逆さにしたものじゃが)は、no-whereというだけではなく、now-hereのことでもあると、哲何には書かれておる(邦訳143頁)。今ここしかない、それゆえに、どこにもない場所ちゅうのが(それが、日本という場所なのかもしれんが)、けいおんであるといってよいじゃろう。部活ちゅうのも、昔は、私を甲子園に連れて行けとか難儀なことをいわれたもんじゃが、そういう場所はもうないんじゃな。


2009年05月14日(Thu)▲ページの先頭へ
ボート屋
古谷実「ヒミズ」では、ボート屋という仕事が、主人公に与えられている。何もかもが終わったあとで、どう生きていけばよいのか、というテーマの物語において(ヒミズは、大体そのような作品であろう)、鄙びたボート屋という仕事は、その主人公に打ってつけといえる。ボートを貸すだけで、後はじっとしていてよい。ボート一つにつき、一時間八百円は取れるだろうから、それだけでコンビニでレジ打ちしているのと同じだけ儲かる(池は自分のものらしいので、ボートのほか、元手はかかっていない)。そして、毎日が同じ繰り返し。これが、よしもとばななふうの幸福な終末観とはまた違った、終末の風景であることは疑いない。
エウレカについて、「人類が滅亡してもコンビニが通常営業してそうな世界観」(注)だというのは正しい。郊外とは、そのような世界であろう。
(注)エウレカセブンは最低視聴率0.7%の糞アニメ61-187


2009年05月08日(Fri)▲ページの先頭へ
めんどくさい
古谷実「グリーンヒル」は、人類最大の敵はめんどくさいであるといっている。めんどくさいというのは、解析すれば、○○すべきである、という当為がありながら、○○したくないので○○しないという不作為への傾斜であり、それは、○○することへのわずらわしさに由来しているといえるでしょう。部屋の片付けのように自分だけに関わる事柄であればそれでもよいが、問題は、他者に関わるところでも、めんどくさいという感情は否応なく噴出するということであろう。親しい人であればともかく、それほど親しくもない人に対して、施しをしようなどと思うだろうか。応答責任などという、見てしまっただけで責任があるというような律儀な考えは、めんどくさいの前には風前の灯といえる。だからこそ、めんどくさいは人類最大の敵とまでいわれるのであろう。


2009年05月03日(Sun)▲ページの先頭へ
氾濫
エヴァやナデシコのころは、歴史と非歴史の境目あたりにいたのかもしれない。あらゆる記号が投入されていたとはいえ、メタアニメであることは志向されていた。ドン・キホーテが、表象の世界に入っていたにも係わらず、類推から世界を見ていたように、非歴史に入りつつあることを、歴史から見ていたといっていいのかもしれない。しかし、ヒミズのころには、非歴史に入ってしまっており、時代が進んだといっていいのかもしれない。アニメでいえば、98年は、CCさくらやlainが放映され、萌え記号が氾濫しだした年なのだろう(断層があった)。時代を区分するのならば、見田宗介のように、プレ高度成長、高度成長、バブル崩壊まで、金融危機まで、というふうに経済の区分に即していれば批判しにくいですが、その間の断層は(小さいものではないとは思いますが)、作品に即して見ていくしかないのかもしれない。


   


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