風子思考集成 - 2009/06

fuukoについて




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2009年06月29日(Mon)▲ページの先頭へ
もぐら叩き
山田花子はこういっている。「人は数々の苦しみを乗り越えて、いつか目的地に辿りつけるという幻想を抱いているが、一つの苦しみが終わったらまた別の苦し みがやってきて、死ぬまで続くだけ」(「自殺直前日記」)。これを煎じ詰めていえば、「人生はモグラ叩きだ」(田口賢司「メロウ」)ということになるだろう。対処しなければならない出来事が、もぐら叩きのもぐらのように次々と現れるが、総体としての意味は欠如している。
刑事裁判は、犯罪人をもぐらとする、もぐら叩きといえよう。そして、もぐら叩きはいつまでも終わらない。裁判をいくら重ねても、犯罪は変わらず行われ、またしても裁判が行われる。デスノートのキラの行ったことは、もぐら叩きを終らせるためのもぐら叩きである。あらゆる犯罪の刑罰を死刑とすれば(しかも、逮捕後直ちに)、たしかに犯罪は行われないかもしれない。
日本では、諺にもあるとおり、「出る杭は打たれる」のであり、異質なものは排除ないし抑圧されるが、これももぐら叩きの要領であろう。「打たれる」と受動態でいわれるが、打っているのはもちろん自分たちである。佐藤心ふうにいえば、オートマティズムが機能しているので、自分たちが打っているという自覚さえない。キラはこうした風土のありようと切り離せないともいえる。


2009年06月22日(Mon)▲ページの先頭へ
3番目
ヱヴァ:序で、まだ3番目か、とカヲル君はいっていた。1番目はテレビ版、2番目は劇場版、3番目は新劇場版ということで、3度目の終局が語られることになるのだろう。ちょっとづつ成長しているということなのかもしれない。1番目は、自己啓発セミナーふうの承認を得る、2番目は、他者のいる現実を認める(少し成長した)、3番目は、その現実の中で何とかやってゆく、というふうに。
エヴァは中二病の古典ですが、ウエダハジメ「Qコちゃん2」に「十五歳以上の老人は要らないそうですよ」というセリフがあった。十四歳は、中二病に罹患するが、それが治癒すれば、大人ではなく、もはや老人なのだろう。


2009年06月15日(Mon)▲ページの先頭へ
子供とは何か
《大人が読んでもおかしくないような、小学生が主人公の恋愛漫画を教えてください》(注)という質問に対して回答が公募され、ベストアンサーとして、山田南平『オトナになる方法』(文庫全8巻)が選ばれている。
このような問いはなぜ問われるのであろうか。つまり、なぜ、大人が小学生が主人公の恋愛漫画を読みたいのか。ショタやロリが昂じて、そういうのと恋愛してみたくなったからであろうか。それではあまりに身も蓋もない。
小学生の恋愛は、恋愛の起原とかかわるものと考えよう。デリダはこういっている。「子供とは何かということがわからないかぎり、あなたには、幻想とは何ということもわからず、もちろんその結果として、知とは何かということもわからないだろう」(「郵便葉書」)。幻想や知は、子供を起原としているのであり(?)、もちろん、恋愛という幻想もそうである。
「われわれは子供時代の記憶と客観的に観察しうる子供を知るだけで、もはや子供の意識を内側から経験することはできない」(柄谷行人「意味という病」)ということもできるが、精神分析は、子供の意識を見てきたかのように語るものだ。
(注)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010343200


2009年06月07日(Sun)▲ページの先頭へ
1Q84
1Q84を読んでみた。ふかえりという少女が書いた小説を、編集者に乗せられリライトする男の話と、DV男を殺している女の話が交互に語られ、この二つが、新興宗教がらみで交わっていき、終盤は、この男と女の「純愛」。自分の知らないことが過去に起こっており、別の「現在」に迷い込んだことが分かる、そこは、月が二つある世界、というようなあたりは、不思議な感覚でした。全文3人称で書かれており、世界の終りのように二つとも1人称というわけでも、カフカのように交互に1人称と3人称というわけでもない。
今まででベストの村上論は、柄谷によるそれでしょうが(というより、ほとんど柄谷のしか読んでない)、自分の主観から世界を構成するありようは、自己完結しており、他者がいない、というようなもの(?)でした。これは正しい。カントを用いているわけですが、カントには物自体という他者がいるというようなことを柄谷は言い出すわけですが、村上も記号の底(?)に物自体といっていいような他者を見出していくわけですが(国境の南、ねじまき鳥)、その先はしかし、迷走しているのでは。おそらく、主観から世界を構成していることには違いはないため、他者を見出したところで、その先はないのかもしれない。80年代に1人称で語ったものを、3人称で語り直そうということなんでしょうが、どうなんでしょうか…。3人称というのにそぐわない作風という気がしないでもない。


2009年06月03日(Wed)▲ページの先頭へ
かな恵ちゃん
伊藤かな恵スレ(注)によると、相沢舞、伊藤かな恵、中原麻衣は、みんな他人に対して壁をつくるタイプだが、それぞれタイプが異なる。相沢は、自分に自信がないので自虐に走る、かな恵ちゃんは、ナルシスト、中原は、他人に無関心。
心理学を齧った人なのか、ちょっと類型に押し込めすぎとは思いますが、おおむね正しいのかもしれない。かな恵ちゃんは、自分に自信はあるのでしょう。「大して私とあむちゃんは変わらないと思うんですよ」(超ラジ#50、2:05ころ)といってますし。
「子供は子供が嫌いだもんね」(志村貴子「楽園に行こう」)というのは慧眼で、そういう理由なら僕も、子供は嫌いといわざるを得ないのですが、苺ましまろとかは好きなわけで、こういう事態は、子供とガキを分けて考えると分かりやすい。つまり、「ガキなき子供」とでもいうのを想定できるなら、それは好きなわけで、かな恵ちゃんみたいな感じの大人は、かえっていいのかもしれない。(注)伊藤かな恵 part5
902 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/25(月) 15:15:41 ID:Xlj0dMoA0
相沢さん、かな恵ちゃん、中原さんは、みんな他人に対して壁をつくるタイプだけど、分析的に見るとそれぞれタイプが違う。
相沢舞さん→典型タイプ。自分に自信がない・人に対する不信・恐れ・不安感が心の根底にあり、他人と打ち解けるのが苦手。ゆえに自虐的な言動で人を笑わせることが多い。
かな恵ちゃん→ナルシズムが心の根底にある。振る舞いや言動におバカさんなキャラを見せるが、傍からどう映ろうと、本人のなかでの自分自身に対する自信は意外に大きく、時折見せる感傷的なポエムやアーティストの歌詞の引用などは、自身の魅力のアピールでもある。
中原麻衣さん→人に対するアパシー(apathy)が彼女の心の根底にある。アパシーとナルシズムは往々しにして同居することが多いが、彼女の場合は基本的に、他人へ自身の魅力のアピールすることはなく、単に人に対する無関心的側面が強い性格。
結論としては、相沢さんは、彼女が自虐することを煽ってくれるパートナーでないと笑いは生まれず、かな恵ちゃんは、彼女に合わせてあげる人がいないと自身のキャラがアピールされず、中原さんは、パートナーによってではなく、コーナー・企画などに面白さがないと、ラジオはとてもシュールな雰囲気に陥る。


   


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