風子思考集成 - 2009/08

fuukoについて




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2009年08月29日(Sat)▲ページの先頭へ
スク水
「スクール水着の優位性」(注1)という現役高校生、崩条リリヤ先生のテクストを読んでみた。曰く、ビキニは、下着を連想させるので宜しくない、少なくとも清楚とはいえないだろう、だがスク水はそうではない。
思うに、スク水ほどラインがはっきり出る服装はない。スク水は、肌に密着しているためすべての体の線が明らかにされる。しかし、同時に、すべてが隠されている。ここからは、女子へのまなざしのありようが窺える。見たいことは見たい、しかし、清楚ではあって欲しい…。なお、拙稿「セーラーふくの論理学」(注2)は、ブルマとスク水の連続性に着目している。
スク水は、制服のひとつであり、紺という色合いもそこから来るのであろう。制服を着ているときまでが少女であると言い切っていいと思われる。高校を卒業してからは、一様の制服を着ることはもはやないが、彼女らは、お嬢さんではあってももはや少女ではなく、スク水を着ることは、特殊なシュチエーションでもない限り、ないだろう。広橋涼は、二十歳になっても着ていたらしいが。しかし、より考えさせるのは、川本真琴が、短大の入学式にセーラー服で望んだというエピソードであろう。
(注1)http://neetsha.com/inside/main.php?id=6447
(注2)http://rorino.blog23.fc2.com/blog-category-1.html


2009年08月22日(Sat)▲ページの先頭へ
使徒
日本の歴史は、もぐら叩きである。もぐらとは他者である。諺にもあるように、出る杭は打たれるのである。出る杭とは他者である。こうして、内部から、他者が現れない構造が出来ており、ゆえに非歴史の中を漂うことになる。(しかし、外部から、ときどき他者が現れる。渡来人やら黒船やらである。これらは、念入りに他者性を消去されていく。無事に非歴史に回帰するわけだ。)
エヴァの使徒は、大塚英志によると「「他者」みたいなものをアニメなりまんがなりのオタクの表現が初めて形象化した」(「だいたいで、いいじゃない。」)ものであるという。使途という他者が現れるたびに、それを殲滅してゆくわけで、これももぐら叩きであるといえよう。もぐら(使徒)叩きが終っても、人類自身使徒であるのなら(「とはいえ、私は一個の他者である」、アワーミュージックに引用されているレヴィナスの言葉)、それももぐらであるといわねばならない。人類補完計画が企図される所以である。
アスカは、作品世界の他者であり、首絞めも、もぐら叩きの延長と考えれば分かりやすいかもしれません。しかし、シンジは、いちおうはアスカと共にいることを望んだわけで、新劇場版がループだとすれば、その記憶(?)は残っているはずで、だから「やりなおすようにみんな全力でハッピーを目指してるって感じ」(東浩紀スレ287-905)になるんでしょう。しかし、人類補完計画は背後に残っているのですから、根本的には変わっていないともいえるでしょうし、変わってしまえばもはやエヴァではないともいえるでしょう。


2009年08月15日(Sat)▲ページの先頭へ
委員会
何が正しいかは法廷が決める、という考えがある。それは、あらゆる正しさを法廷が判断できるということを前提としているが、象徴界の失調は、そのような権威をもはや法廷に認めない。何が正しいかは、個々の委員会が暫定的に決めるしかない。薬害エイズの神話とでもいうべきものがあり、検察はその成功に酔っているのかもしれないが、法が専門家を裁けるなどというのは傲慢であろう。JR事故について、委員会がどうしょもないといっている箇所が起訴されているが、法廷が委員会の判断を覆したとしても、その正しさを認めなければならない理由はどこにもない。このような訴訟は無意味であろう。法廷も一つの委員会なのである。


2009年08月09日(Sun)▲ページの先頭へ
穢れ
のりピー…。覚せい剤で、アイドルのイメージは壊れるのであろうか。ミュージシャンなら別にどうということはないが、アイドルには苦しいとすれば、なぜなのか。分からないが、ピュアというのは、汚れ(穢れ)がないことであり、覚せい剤は穢れとして見られているのかもしれない。穢れが嫌われる文化圏なのであり、アイドルはピュアでなければならない。
しかし、ピュアを持ち上げすぎなのではないか。そういう名前の写真集は後を絶たない(清水香里でさえ、そういう名前の写真集を出している)。ピュアピュアなる雑誌まである。児童ポルノはサモトラケのニケよりも美しいということなのだろう。
ところで、華原朋美は、ピュアではないがイノセントではあると、中原昌也が評していた(「サクセスの秘密」)。ピュアとイノセントの差異を考えるに、例えば、ヴィスコンティの遺作がイノセントであることからも、西洋人がイノセントを好むことは窺えよう。


2009年08月02日(Sun)▲ページの先頭へ
地頭(その2)
高野隆氏は、「自白の現状に対して裁判官はあまりに無知ですよね。最も無知な人間が最大 の権力を持っている」(注)といっている。天皇(裁判所)は、地頭(警察)がいかに酷い ことをしているか知らないといいたいらしい。たしかに、彼らは世間については無知なの であろう。しかし、地頭(警察)の横暴については、むしろ目を瞑っているといったほうが正しい。法廷で自白の任意性をめぐる攻防は、幾度となく繰り返されているのである。
現状を知らないからという理由で、天皇(裁判所)は免責され、当然のように、国民は免責されていく。天皇が免責されたことで、国民が免責された(参照、柄谷行人「倫理21」) ように。しかし、地頭(警察)の横暴に耐える国民という構図は、疑われてもよい。無罪判決を怖れているのは、むしろ国民なのである。機能している裁判所にとって無罪判決など痛くも痒くもない。
(注)刑事弁護Beginners、現代人文社


   


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