風子思考集成 - 2009

fuukoについて




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2009年04月03日(Fri)▲ページの先頭へ
小中千昭
神霊狩は、幽体離脱と脳科学を結びつける思わせぶりな世界観の中で、ジュヴナイルふうに語られるストーリーは、唐突に大団円を迎える。処理に、1話しか(!)使っていない。それまでの雰囲気作りにどれだけ尺を使ったかを思えば、拍子抜けせざるを得ない。テクノライズでは、ヤクザがひたすら潰し合うが、技術(テクノロジー)は物語にとって必要ないと、アンサイクロペディアで指摘されている。この点、lainは、世界観に迫ること自体が物語の全てなのでその間に乖離はないし、技術を用いる必然性もあった。1クールというのがよかったのかもしれない。小中千昭は、続き物で2クールだと持たないのだろう。
小中千昭は、物語を語るタイプではないのかもしれない。ホラー出身だからだろうか。ホラーでは、怖いものが迫ってきて、その正体を探るものの、それが分かったからといって救われるとは限らない。探偵小説と似ているという気もする。探偵小説では、犯人が誰かに主眼が置かれているように、小中作品では、世界の成り立ちに迫ることに主眼が置かれている。しかし、探偵小説とは違い、それが分かったからといって、救われるとは限らない。世界の成り立ちが分かったところで、岩倉玲音はまったく救われない。


2009年03月27日(Fri)▲ページの先頭へ
クラナドの最終回には唖然とさせられた。それまで、人生とか言って、曲がりなりにも現実的(?)に進んでいた物語が、一転、エヴァを思わせるメタなものになってしまう。
ゲームはやってないので分からないのですが、どうやら、渚は街と繋がっているらしく、街が不幸だと死に、街が幸せなら、生き延びることが出来る(注1)。第1期は、渚一筋であり、かつ、周りの人を幸せにすることに重きが置かれていて(注2)、このルートだと、渚は死なずに済むはずである。従って、出産のところから、最終話まで飛ぶ。渚が死に汐も死ぬのは、1巡目ということで、それまでの時間と連続していない。こういう悲劇を避けるために、街中が幸せになるように、2巡目をプレーしてくれということらしい(第1期は、この2巡目)。一つの時間が流れているというふうに見えるけれど、それは、いわば叙述トリックということのようです。ある意味、画期的かもしれない。
最終回までは、時間が連続しているとばかり思っていましたし、それで物語としておかしいわけでもない。この点を示したことは、期せずして内在批判となっている(?)。
(注1)渚はネットワークそのものを具象化したものであり(岩倉玲音みたいなもの(?))、ネットワークが良い状態なら生き、悪い状態なら死ぬということらしい。
(注2)だいぶ昔に書いた印象は、当たっていたのかもしれない。
http://fuuko.noblog.net/blog/10479786.html


2009年03月20日(Fri)▲ページの先頭へ
する
宇野常寛「ゼロ年代の想像力」には、人がキャラ化しているとされることについて、「である」ことへの回帰であるとして批判し、「する」ことによる承認を目指すべきである、とする箇所があったと記憶しています。今さら丸山真男なのか、という感じもしますし、あるいは、今だからこそ読むべきなのかもしれませんが…。
しかし、「する」ことに価値があるというのは、疑う余地もあるのではないでしょうか。 近代では、今というのが見失われているというのは指摘されるところです(真木悠介「時間の比較社会学」)。例えば、工場で働く(ことを「する」)のはお金のためであり、工場で働くこと自体は目的ではない。何かのために「する」のであり、「する」こと自体が目的というわけではない。今・ここではないものによって意味づけされていなければ、「する」ことに価値はない。「する」ことは、それ自体としてはちっとも楽しくない。


2009年03月13日(Fri)▲ページの先頭へ
噫無常
小森健太朗「英文学の地下水脈」は、黒岩涙香の原典を探してるんだけど、噫無常と岩窟王を除くと、見事に残らない作品ばかりを翻案してるみたいです。この残っていない作品群から、新しい探偵小説観を構築しようという試み。
どうも、歴史的に見て、女流作家は、中盤のサスペンスから入り、謎と解決というのは後から挿入していったみたい。志村貴子なんかは、中盤のサスペンス(?)だけで作品を成り立たせているのかもしれませんが、もともと女流とはそういうものなのか。「奇妙な英米文学」(アンチオイディプス)といわれるものの系譜に探偵小説があることは疑いなく、探偵小説を、嵐が丘とかアリスとかと併置するような視座は、有用かもしれない。


2009年03月06日(Fri)▲ページの先頭へ
NO!!WAR
三田格のスレがあってもいいじゃないかその2(注1)を、テクノ板で見つけた(社会学板にも、なぜか彼のスレがあります)。
彼(や野田努)は、イラク戦争に対して、NO!!WARという抵抗を試みた。西村大介は、彼らの抵抗には批判的で(注2)、マクロス7(「戦争なんてくだらねぇぜ、それより俺の歌を聴け」)だけが戦争を批判できるんだ、と言っている。
三田格のモストフェイバリットであるフィッシュマンズの「新しい人」は「グルッと見回せば 何にもない」といってるけど、イラク戦争(や凹村戦争)は、そういう中での戦争であろう。世界から意味が消尽しており、テロと同じく、対テロ戦争(といわれる戦争)にも、意味が見当たらない。仮に対象破壊兵器が存在したとしても、イラク戦争をする意味はどこにあったのか。こうした状況下での戦争を批判できるのは、「みんなが夢中になって 暮らしていれば 別に何でもいいのさ」(「幸せ者」)というような思想しかない、というのはその通りかもしれない。
(注1)http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/techno/1130913030
(注2)で、『凹村戦争』は、一つは新海さんを始めとしたセカイ系的なものに対するアンチテーゼなんですが、もう一つに、いわゆる9・11、イラク戦争前後における政治的なもののたかまりに対してのアンチでもあるんです。いちばん大きいのは河出書房新社の『NO!!WAR』なんですけど、アレを僕はダメだと思ったんです。いいけど、ダメっていうか。僕はガイナックスと同時に、1990年代のテクノシーンにもかなり感化されていますから。要するに結局のところは野田努とか三田格とかあそこらへんの人たちが、戦争が起こったときに、レイブ・パーティーやクラブで騒ぐかわりに、戦争を持ち出して一回騒いだだけだって思っています。『現代思想』とかに載った後日談とかを読むと、ああやってよかったなみたいな話に落ち着いちゃって……あれ?それで終わりなのって。
東浩紀『コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル』青土社


2009年02月28日(Sat)▲ページの先頭へ
部屋と下着
どうしてだかは忘れたのですが、「月間星野真里」を買ってみた。ついでだから、「月間鈴木茜」も買ってみた。これは宮下マキという「部屋と下着」という写真集で知られる人が、雇われ仕事で撮ったようです(注)。鈴木茜というのは、着エロの人らしいですが、「部屋と下着」の写真家に撮らせてみようというのは、なかなかの慧眼だといわねばなりません。
女(の子)の部屋というのは、写真にとって未踏の領域であったといっていいのかもしれません。女(の子)が生活しているだけの姿は、女(の子)にしか見えない。一方、着エロは、モロが氾濫する中での反動めいたものであり、外すものを男(の子)に与えているのでしょう。
(注)http://iwata-blog.seesaa.net/article/96149428.html


2009年02月22日(Sun)▲ページの先頭へ
ボランティア
金子郁容「ボランティア」(岩波新書)という本を、柄にも合わず買ったのですが、あとがきだけ先に読んだところ、助けを求められることで、助けたくなるのが人間というものらしいです。そこからつながりが生まれる。標語ふうにいえば、必要とされることが必要、ということなのかもしれない。居場所のない人が、ボランティアをすることで、自分が必要とされる場所に身を置きたがっている。誰からも見捨てられていると思わずに済むために。しかし、そこでのつながりは、あくまで公共圏のものであって(つまり、誰でもいい)、親密圏のものではなく、その場限りのものでしかない。そこで友達や彼女が出来ることはあるのかもしれないですが、それはまた別の話。
ボランティアと援助交際は同じ頃に現れた。朋ちゃんは、♪街中で居る場所なんてどこにもない、と歌っている。援助交際は、居場所のない少女が、男を援助(ボランティア)することで、居場所を見つけようとしているものといえる(男にも居場所はない)。総体として、小室哲哉のしていたことは、援助交際なのかもしれない。
居場所のなさの系譜は、新しい家郷(=核家族)における少女を起点にしているといえ(参考、宮台真司ほか「サブカル神話解体」)、そのヴァリエーションが連綿と続いてるということかもしれない。


2009年02月16日(Mon)▲ページの先頭へ
こころがかんなぎに引用されていたので、積んであった門を読んでみました。三角関係で、略奪愛みたいなものでくっ付いた夫婦の話ですが、こころも、そんなでした。大西巨人は、この夫婦が理想だ、みたいなことをどこかで言っていたのですが、社会から弾き飛ばされて、夫婦だけで世界を作っているわけで、きみとぼくの閉じた(?)世界であるといえるでしょう。世界で一人だけというのは、あまりに寂しいですが、二人だと、生きていけるかもしれない…。植田佳奈はどこかで、ケンシロウとユリアが理想だ(?)といっていましたが、二人だけの世界みたいなのを考えているのかもしれない。
セカイ系は、アスカに拒絶されないエヴァだといわれますが、それでも、人類補完計画(的なもの)は拒絶している。きみとぼくしかいないということは、三人称はないということだし、それと一体化することも拒んでいる。


2009年02月10日(Tue)▲ページの先頭へ
AFTER STORY
その後(AFTER STORY)、二人は末永く幸せに暮らしましたとさ、というのが昔話だけど、エロゲーは、二人の未来になど最高に無関心である。とにかく、処女のヒロインを奪うことさえ出来れば、あとはどうでもいい。この点で、クラナドは、AIRとは違う形で、エロゲーの臨界点といえるかもしれない。ふたりが暮らした、という宮崎アニメ(注)のようなことを、エロゲーでやっている。エロゲのヒロインと、ずっと暮らすなんて、考えられるのだろうか。よく分からない。渚みたいな女(の子)が、この世に存在するとは思えない。奇跡など、なおさらありえない。
東浩紀ふうにいえば、「父親になれない」という課題を突きつけられたゲーム作家が、「父親になりたい」と思い、作品を構想したところ、体の弱いヒロインは死んでしまい、娘も死んでしまう、というようなのしか思いつかず、そのままだとあんまりなので、窮余の策として、奇跡を起こしてみた、ということなのかもしれない。結局、奇跡なしに、父になどなれない。父とは、奇跡なのである。
ヨブ記は、当初、やられっぱなしだったが、それではあんまりだということで、救いのエピソードを加えたらしい。柄谷は、同じ嫁が帰ってこないのに、喜ぶのはおかしいといっていた。クラナドでは、同じ嫁(と娘)が帰ってくるのですが、それはそれで…。
(注)ハウルは、クラナドと同じ04年に発表されている。


2009年02月04日(Wed)▲ページの先頭へ
あちらの世界
声優ラジオとかにのめり込んでいる人は、そこにある擬似的な親密さみたいなのに惹かれるからかもしれません。百合好きと、声優好きは、それぞれ単体でも危ういのですが、揃うとほとんどの人があちらの世界の住人になってしまうことが知られています。声だけというのは、とても親密な感じがしますし、囁き声などになるとなおさらです。そしてそれは、聞き手と話し手の間のみならず、話し手同士にも親密なものを感じさせる。こういうのが昂じると、声優好きから入って、百合好きになってしまう。こうなると、もう戻って来れない。
囁き声は、親密さを感じさせる。能登麻美子が、あれほど演技に難があるにもかかわらず重用されるのは、その辺によるのだろう。


2009年01月29日(Thu)▲ページの先頭へ
ネタ
ストパンとギアスR2が、去年の9月に終わったわけですが、このふたつはネタアニメを、極めていたといっていいと思う。ギアスなんて、ネタをつないだだけじゃないのかという感じだったし、ストパンは、ネタだけど、それと萌えを不可分な形で融合させており、実際、あれ以上の、萌え/ネタアニメというのは、ちょっと想像できない。00年代のメインストリームは、萌えと2ちゃんねる経由のネタにあったといっていいかもしれないですが、この二つを同時に臨界まで持っていくことで、終わらせたといっていいくらいの過激さはあったと思う。ストパンの先を行くアニメというのは、少し想像できない。ギアスは、セカイ系といわれる思考の中を動ける限り動くことで、それを自壊させた。どこに出たのかは、分からないけど。何かが終わったという感が漂っていることは否めない。


2009年01月23日(Fri)▲ページの先頭へ
存在が浮いている
沢城みゆきと福井裕佳梨は似てると思う。いつも微妙に浮いてるところ。ふくうち ◆.YUKAuj4c.は、沢城が浮いているのは、技術的なところから入っているからだといっていますが、沢城は、所属劇団の人たちと喋ってるときでさえ、声は浮いている(注1)ので、おそらく存在が浮いている。植田佳奈が、本物の(?)天然はゆかりんだけ、と性悪ぶりを発揮していっていたけど、この浮き方も、多分それ。「私が実る木の下で」は、通しで聴くと、かなり(3曲目くらいから)気分が悪くなることは請け合いです。ポニョとか歌ってる姿は、幸せそうですが(注2)。
(注1)http://dangofan.seesaa.net/article/112693605.html
(注2)http://jp.youtube.com/watch?v=9LSdEGNu9dk&feature=related


2009年01月17日(Sat)▲ページの先頭へ
人間の条件
本田透とか鶴見済とかは、人間の条件から遠く離れようとしている。超人というのも、素朴に考えればそういうものかもしれない。一人で、森の中で動物たちと暮らすというのは、複数性(人間の条件)から外れている。意味や価値は一人で作り出すものだ。それまでの哲学には、意味も価値もなかった(「ニーチェと哲学」)。
本田透や鶴見済は、現実/虚構/身体(身体は、もう一つの、人間の条件であろう。)を組み替えることで、人間であることを克服しようとした人といえよう。それぞれ、その時代のリミットをなす思考である。
鶴見済は、現実からいつでも(楽に?)離れられる方法を用意することで、現実を対自的に見る(「完全自殺マニュアル」)。そして、そうして見られた現実の苦しさを、クスリを用い、身体に訴えることで逃れようとする(「人格改造マニュアル」)。本田透は、あまりに殺伐とした現実を前に、「自殺するなら、引きこもれ」といい、虚構に引きこもる。身体の充足には、バーチャルな彼女を用いる(「萌える男」)。


2009年01月11日(Sun)▲ページの先頭へ
恋の理論
しかしエンマは、自分の正しいと信じている理論通りに恋を感じようとした。(ボヴァリー夫人・フローベルより)
ヘテロセクシャル・岡崎京子より、孫引き。完璧な引用といっていいでしょう。一行でボヴァリー夫人を要約すれば、ここになるのではないでしょうか。19世紀小説を一行で要約しているといっていいかも知れない。
この「恋の理論」は、どこから来ているかはわかりませんが、近代の産物といっていいのかもしれません。だから、ポストモダンになれば、維持できないのではないでしょうか。
本田透は、バーチャルの時代(注)の旗手であったことは間違いないでしょう。彼の思想は、「彼女はバーチャルでいい」というものです。彼女はいらないといっているわけではない。リアルの女たちは、もはや「恋の理論」からは逸脱しており、そういうのはバーチャルの世界にしかいない。しかし、バーチャルの世界には、人肌の温もりはなく、リアリティへの飢餓感は拭えない。
(注)見田宗介が「虚構の時代」の次の時代を命名した。朝日新聞、2008年12月31日付。


2009年01月05日(Mon)▲ページの先頭へ
中古
《もともと処女性とは後生大事にいつまでも保持しつづけるわけにはいかないものであり、したがってそれは、失われ無くなることによって、これまで処女だったことの証となるはずのものなのだ。》(フォークナー「アブサロム、アブサロム!」篠田一士訳)
かんなぎといえば、中古騒動ですが、かんなぎDVD第1巻に、中古というシールが貼られているところなど、哀しいものでした。しかし、フォークナーのいう通り、処女性とは、非処女によって、遡及的に見出されるものでしかない。処女には、処女性は分からないし、もちろん、男にも分からない。
ひとたび線を越えると、もはや引き返せないのであり、中古という言葉の厳粛な響きはそのことを表している。つまり、一度でも使えば、中古ということになってしまう。中古だから価値がないというようなことはいえないが。
非処女は、もはや処女とは、質的に異なった存在であろう。非処女は、もはや、処女と同じように思考することはできない。処女も、非処女のようには、思考できない。従って、その線はどういうものか、処女にも非処女にも、分からない。
そして、ある線を越えたものは、その線の越え方になど、もはや興味を持たない。非処女は、処女には戻れないのだから、そんなことを考えても意味がないのである。むろん、線を越えることが、常に悪いわけではない。線を越えなければ、先には進めない。越えて行かなければ、朽ちていくだけという線もあるのだ。


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