風子思考集成 - 2010/06

fuukoについて




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2010年06月28日(Mon)▲ページの先頭へ
人形
井上麻里奈はアイドルなのか。愚かな問いだ。世の人の9割9分が麻里奈を知らないとしても、動物化した人民にとっては、輝かしいものとして響いているであろうこの名は、アイドルというにふさわしい。一行で答えが出た。しかし、動物化した人民のほうからは、こういう声も聞こえてくる。一緒にラジオをやっている伊藤かな恵ちゃんは、小学生のようなルックス、喋り方、その他妄想を抱かせるあらゆる特徴を備えているのに、麻里奈は、きれいなだけの人形ではないか。下らない。妄想は人それぞれだ。それに、アイドルとはもとより人形ではなかったのか。かな恵ちゃんがかわいいとかいっているロリコン崩れなど、放っておけばよろしい。
麻里奈といえば、グレンラガンのヨーコだろう。漫画家の砂などといったお歴々を、心の深奥まで震わせるそのルックスは、忘れられない。忘れられるはずもない。むろん、麻里奈にとってもそれは同じだ。米国の動画投稿サイトにアップロードされている動画(注1)では、涙を浮かべつつ、ヨーコへの思い入れを語っているのである。声優の泣いているところなど、そうそう見れるものではない。少なくとも、筆者は見たことがない。
グレンラガンについて語ることは、た易い。これ見よがしのメタアニメであり、巷のブログ論壇では、メタレベルを縷々述べて、喜々としている姿が散見される。愚かしい限りだ。そんなことをいって何になるというのだろう。むろん、そのように反問できるくらいの知性があれば、下らないことは書かずに、黙ってテレビを見るだろう。そうあるべきだ。それこそ、人民の正しい姿だ。テレビとはそういうものだ。いや、違う。今や、違うのだ。言い直そう。ネットの傘下にあるテレビはそういうものではない。今や、人民はメディアなのだから。だから、グレンラガンについて、下らないことを喜々として書き散らす人民を、私たちは、止めることもできなければ、貶すこともできない。できようはずもない。そんなことができるのならば、ブログ論壇と同じく、ブログで行われる声優のファンサビスをどう受け止めればいいというのか。地震が怖かったと語るだけの麻里奈の記事(注2)に群がるコメントに、どう顔向けするというのか。麻里奈のブログは、淡白なものだ。私生活が垣間見えることはない。しかし、よい。それでこそよい。何か書くことに意味があるのだ。人民も、声優も。距離を保つことが、その条件となろう。
話がずいぶん逸れたようだ。しかし、迂回は避けられない。迂回を恐れるのであれば、声優についてなど、語らなければよろしい。声優について語ることなど、実は何ひとつないのだから。それでも声優について語るのは、語りうるトピックがそれしかないという事情によるものだ。一定の濃さで語りうるトピックは、限られている。私たちのような一人語りは、テレビで一五秒くらい適当なコメントを付けるのとは、自ずから違う。そして、現在、私たちを含め人が語るのは、語るくらいしかすることがないからだ。あまりに身も蓋もない真実だろうか。そうだ。その通りだ。真実とはそういうものだ。続ける。
麻里奈はアイドルか。私たちは、冒頭の一行で答えを出した。然り、と。今や、私たちは問いを転形させることができる。では、麻里奈はどのようなアイドルか、と。ここまでの理路からして、分かり切ったことだ。もう筆を擱くときなのだろう。しかし、ここで一人のアイドルと出会うことも、一興ではあろう。しょこたんだ。しょこたんも、麻里奈も、お人形にあこがれて、お人形になった。オタクが昂じて、オタクのアイドルになった。似通っている。
(注1)http://www.youtube.com/watch?v=OjD3QkCtM8A
(注2)http://yaplog.jp/marinavi/archive/933


2010年06月21日(Mon)▲ページの先頭へ
セーラーふく
セーラー服を脱がさないで、という歌がありましたが、その理由は、セーラー服を脱ぐとおばさんになってしまうからであると、大塚英志はいっていました(「少女民俗学」)。これは、セーラー服という記号性しか彼女たちにはないという認識からでしょう。しかしながら、らきすたのOPであるもってけ!セーラーふくでは、セーラーふくがもっていかれても、自己が失われることはないということが歌われています。これは、どういうことなのでしょうか。
おそらくは、手塚の死後、記号性と身体性の関係が変わったのでしょう。どう変わったかは、よく分かりませんが、「オートマティズムが機能する」(佐藤心)ようになったということだけはいえるでしょう。らきすたに続くけいおんでは、少女たちは、実にオートマティックに動いています。ゼロ年代のアニメが見た夢といっていいでしょう。あずまんが大王のアニメ化はこけてましたが、あれは、4コマとして面白すぎました。4コマの原作はカスであればあるほどいいというのが、らきすたやらけいおんの教訓でしょう。たぶん、そのほうが、アニメのキャラとしては動いてくれる。


2010年06月14日(Mon)▲ページの先頭へ
ホログラム
《使徒は徹底して記号であり、手塚に反して、身体性を一切残さないことで、他者を導いた》(注)。アニメやまんがに初めて他者が現れたと、大塚も認めてました(「だいたいで、いいじゃない。」)。これは、手塚システムからは他者は現れないと認めてるようなもので、キャラを抑圧とかいうよりも、深刻なものではないかと思いますが。
使徒はそうだとして、綾波はどうなのでしょうか。記号性はいくらでも複製できることは、身体性による唯一性により覆われていたものの、クローンという仕掛けにより、その覆いが取られています。これも、手塚システムの内在的な批判といえるでしょう。もっとも、クローンとはいえ一つ一つの身体には唯一性があり、そのことから(?)、「私はあなたじゃない」という台詞に至りますが。
岩倉玲音は、綾波のようなキャラですが、ネットで遍在する記号性が、リアルワールドにおいて、そのホログラムとして身体性を得ているということでした。
(注)http://fuuko.noblog.net/blog/11015364.html


2010年06月07日(Mon)▲ページの先頭へ
絵本
ゆかりんに発表してもらいましたが、こちらで引き取ります。何度か書き直したというか言い直したものの、論理の飛躍が少なくないので、少しだけ注釈を付けておきたい。
《アイドルも、声優も、記号的身体でしょう》(注)。ここは、理由なく断定していると言わざるを得ません。ゆかりんは、どうやらテヅカイズデッドに依拠しているようですが、うろ覚えのようです。
「アイドルとは《シミュラークル》が生身の実体を持った不幸な存在」(大塚英志「システムと儀礼」)ですが、シミュラークルというのは、記号性と言い換えていいでしょう。例えば、山口百恵は、記号の集合である。固有名に必然性はない。しかし、存在するためには、身体が必要である。そして、その身体性により固有性を得ている。しかし、その身体性により記号の集合であることを覆い隠してもいる。
逆に、記号性が身体性を抑圧している面もあるように思われる。大塚がアイドルを「不幸な存在」であると感じるのは、ここからだろう。
つまり、アイドルとは、身体性と記号性が相互に抑圧しあっている「不幸な存在」といえる。しかし、この不幸さこそが、アイドルを動かす物語である。かわいそうとかわいいが、ここで重なる。
記号性と身体性を空間的に分ければ、true tearsになるのかもしれない。乃絵が記号性、比呂美が身体性に対応する。乃絵は、記号性しかないので、飛ぶことはできても、泣くことはできない。逆に比呂美は、身体性しかないので、泣くことはできても、飛ぶことはできない。比呂美と関わるだけでは、絵本は書けないだろう。
(注)http://fuuko.noblog.net/blog/11015364.html


   


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