風子思考集成 - 2010/07

fuukoについて




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2010年07月28日(Wed)▲ページの先頭へ
中間集団
内藤朝雄「いじめの構造」によると、いじめの大きな原因は、子供をクラス(という中間集団)に閉じ込めておいて、仲良くすることを無理強いすることにある。そこでは、いずれかの小集団に属さざるを得ず、閉ざされた小集団内では往々にしていじめが起こる。このようにクラスという中間集団が個人を圧殺しており、こうした現象を内藤氏は中間集団全体主義と命名している。
こうしたクラスという中間集団と小集団の関係は、ムラとイエの関係を転写したものであろう。かつて、ムラは閉じていて、その中で、イエも孤立していた。しかし、そこでは「いじめ」は、イエではなく、ムラの中で行われる。イエでは、むしろ、人は凝集しており、理想的な小集団像を提供している。とはいえ、どこの国でも、家族はこうというわけでもない。普通は、家は、個室と共通の場に別れているものであり、ここから個人が生まれるが、日本では、これが別れず、始終家族が一緒におり、個人が生まれない(中根千枝「適応の条件」)。

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2010年07月20日(Tue)▲ページの先頭へ
小集団
けいおんは、オタクのみならず、広い層に支持されています。CUTやan・anといった雑誌で取り上げられており、社会現象になりつつあるのかもしれません。しかし、エヴァのようにいろいろな仕掛けがあるわけではありません。逆に、何の仕掛けもない。例えば、けいおんには、いかなる意味でもメタな仕掛けはありません。らきすたは、メタアニメの不可能性を示したと黒瀬氏がいっていましたが、その帰結なのでしょう。
では、他の萌えアニメとどこが違うのでしょうか。閉じた少女の小集団を、単独で、かつ女性の目線で取り出したことでしょう。小集団の外は画かれていません。男がいないのはもちろんですが、大人もおらず、先生は、先生としては存在していません。これだけであれば、苺ましまろなどと変わりませんが、苺ましまろは(男性作者による)あくまで脳内の小集団です。しかし、けいおんの小集団は女子高生としてリアルです。そこ(だけ)が新しい。監督が若い女性だというのも大きいのかもしれません。
けいおんがどうしょもないアニメであることは疑いありませんが、むしろ、アニメのどうしょもなさが純化しているともいえます。中原昌也は「アニメという時点でダメ」「マンガってだけでダメ」といってますが、けいおんほど、そのことを実感させる作品はありません。(人と人の)不当な近さが、そこにはあります。

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2010年07月13日(Tue)▲ページの先頭へ
生クリーム
愛生(あいなま)に、私のようなかな恵ちゃんの信者が、節操もなく飛びついていいものかどうか、迷うところではある。
かな恵ちゃんと愛生の違いは、けいおんの有無に尽きている。しかし、そのような役を得たことは、ラッキーだけによるものではない。けいおんのようなどうしょもない作品のヒットは、人がいかに脱力的なものを求めているかを示しているが、愛生は、それに応えている。
脱力感に加え、愛生のキャラを特徴付けているものは、多幸感だろう。《あいなまは甘すぎる生クリームのようで大量に摂取すると胃がもたれる》(東浩紀377-662)。
脱力感と多幸感という、白痴を思わせるキャラであるが、その基盤は何なのか。声質であろう。

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2010年07月06日(Tue)▲ページの先頭へ
NPC
Angel Beats!は、麻枝准が初めて手がけたアニメであり、けいおん!!と並ぶ四月の注目株でした。制作スタッフがビッグマウスを叩いていたことと、天使がかわいかったということくらいしか記憶に残らないでしょう。しかし、4万枚くらい売れているようです。…。
死後の世界であることから、身体は死なない。身体に意味があることは、生前の臓器移植のエピソードから明らかですが(あまり普及していないはずの臓器提供意思表示カードを次々と取り出すシーンは、笑ってしまいますが、マジです)、死後の世界には、記号しかないといえるでしょう。NPCが出てきたりしており、パソコンの中のような世界観なのでしょう。影について、ゆりは、ゲームセンターのゲームのように、長く居過ぎると勝てない敵が現れ、強制排除されるようになっているのかもしれないといっていましたし。データをコンピュータに送って、その中で〈コピー〉として生きていこうという発想は、SFにはありました(イーガン「順列都市」)。〈コピー〉はデータなので、分裂もできます。天使も分裂していましたが。ただ、この場合、記号しかないので、不死です。そこで、不死とはどういうことなのかというような思弁が、そこでは行われます。
しかし、AB!は、卒業していく世界であり、成仏することがゴールです。どうやら、最後のシーンは、輪廻を示唆しているようです。そこで、人生を肯定した上で、再スタートしようというメッセージが発せられている、と解釈している人がいました。

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