風子思考集成 - 2010/10

fuukoについて




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2010年10月30日(Sat)▲ページの先頭へ
一巡
まんがやアニメは、小集団的雰囲気に包まれている。押井守は、ビューティフルドリーマーで、その不健全さを指摘した。しかし、その後、現実における小集団的雰囲気が脆弱化し、その反映としてエヴァが現れた。前島賢「セカイ系とは何か」によると、エヴァは、ホワイトベース(共同体)の不在と使徒という訳の分からない敵により、拠りどころを失った自我が露出してゆく物語である。ホワイトベースは、まさに小集団であるが、日本社会においては、それがないと自我を守るものがない。小集団の外は、他者しかいない現実である。使徒は、まんがやアニメによる初めての他者の形象化であると、大塚英志が指摘しているが(「だいたいで、いいじゃない。」)、日本社会において、他者は、小集団の綻びというステップを通じて初めて現れうる。ホワイトベースの不在が使徒という他者を生んだといってよい。人類補完計画は、使徒という他者を消去した上で、小集団的雰囲気に戻ることを企図したものである。しかし、シンジは、アスカという他者を選択することで、これを拒絶する。セカイ系には、最初からアスカのような他者はいない。従って、セカイ系をアスカに拒絶されないエヴァなどと捉えることは、正しくない。
けいおんやサマーウォーズは、一巡して小集団に戻ったものである。けいおんにおいては、小集団が集団との関わりなしに存在しており、それがユートピアめくのは当然である。小集団のいいところだけを取ってきているからだ。とはいえ、日本社会における集団の構成と齟齬はない(集団を描いていないだけ)。しかし、サマーウォーズにおける大家族の捉え方には、問題がある。大家族とネットワークを重ねているが、日本社会の集団は閉じているのであり、開かれたネットワークとは異なる。ネットワークは、閉じた集団を侵食するものである。ウォーゲームにおける子どものつながりであれば、ネットワークと重ねうるだろうが。


2010年10月23日(Sat)▲ページの先頭へ
無頼派
太宰治や坂口安吾といった無頼派は、敗戦直後の時期に、世間を批判した。これは、私小説が、世間の気を惹こうとして、破廉恥なことを告白するのとは、全く異なる。世間がここまで理論的に批判されたのは、初めてである。
太宰治は、「人間失格」で、「世間というのは、君じゃないか。」とする。世間とは、相互監視システムであり、太宰の把握は、正しいものではないが、相互性を捉えてはいる。なお、この箇所について、加藤典洋は、「他者とは何か、それは、正しさに着地しないもの、名指されないものではないか、そう、太宰はいっているのだ」(「敗戦後論」)といっているが、開いた口が塞がらない。
世間は、相互監視システムだから、集団転向することはありうる。赤信号でもみんなで渡れば、相互監視の中では、誰からも咎められることはないからである。太宰が「時代は少しも変らないと思う。一種の、あほらしい感じ」(「苦悩の年鑑」)というのは、正しい。相互監視そのものは何ら変わっていない。
坂口安吾は、「堕落論」で、堕落することで救われると説いたが、これも、相互監視を批判するものである。相互監視の中では、常に周りのまなざしを気にしなければならず、個人として生きるということはない。堕落は、個人化の契機なのである。
《安吾には、「超自我」が欠けているということである。しかし、他方で、彼は自己立法(自律)的であり、それに関しては驚くほど峻厳かつ勤勉である》(柄谷行人「坂口安吾とフロイト」)。相互監視によってのみ行動を規制しているムラビトが、相互監視を離れれば、無法者になるおそれがある。そうならないためには、自律的であること、つまり自我を強く持つより他ないのである。
無頼派は、世間の外には出ず、その内に止まって、世間を批判した。変革を企てたのであろう。「徒然草」のように世間の外に出て、世間を批判する書物は、決して珍しくない。それらを世間の人は、共感しながら読んでいた。しかし、それでは何も変わらない。


2010年10月15日(Fri)▲ページの先頭へ
敗戦後論
日本人の戦争観は、自分たちは被害者である、というところに収斂した。自分たちは国に騙されていた。加害者は国である。そのような国は信じられないから、軍隊を持たせるわけにはいかない。自分の子が徴兵されるのは真っ平である。このような思考の原因は、その国家観にあると思われる。
近代に入っても、依然として、ムラビトの世界は、ムラで完結していた。江戸時代までのように、国なしでも暮らしていけたのである。従って、国は、自分たちの暮らしの外部にある存在である。うまくいってるあいだは、彼らに任せたうえで適当に従い、その果実を乞うが、うまくいかなくなれば、切り離し、罵倒する。
加藤典洋「敗戦後論」は、戦後日本が「戦争に負けたこと」を受け止めていないため、戦後処理が出来ない、とする。しかし、国民は、国が「戦争に負けたこと」を受け止めたうえで、国を切り離して、国の行ったことはあずかり知らぬとした。勝てば官軍、負ければ賊軍というわけだ。政治的責任など思いもよらない。
従って、国民は自分たちが悪いとは思っておらず、切り離した国が謝ろうが謝るまいが、どうでもよい。国としては謝らざるを得ないであろうが。しかし、僅かにいる心情的に国に就いている人にとっては、異なる。彼らにとって、国家は無垢なものでなければならない。自らの空洞を埋めるものとして国家が現れているからである。こうして、国と心情的に国に就いている人に、分裂が現れることになる。


2010年10月07日(Thu)▲ページの先頭へ
キャラ化
《小集団の理想的なサイズは五〜七人である》(中根千枝「タテ社会の力学」)。これより大きくても小さくても、小集団的雰囲気は生まれにくい。従って、家族の人数が減ったということは、日本社会にとって大きな変化である。なぜなら、それは家族から小集団的雰囲気が消えたということを意味するからである。
従って、子どもたちは、家庭で小集団的雰囲気を味わわないまま、子どもたちの集団に入っていくことになる。これがいわゆるキャラ化が生じている理由であろう。家庭で小集団的雰囲気を味わったことがないため、家庭の外でもかつてのように自然にそれが生まれない。ゆえに、キャラ化することで、意識して小集団的雰囲気を生み出そうとしているのである。家族から小集団的雰囲気が消えても、それがこのように再生産されているということは、日本社会における小集団的なものへの志向の強さを物語っているともいえよう。
ここで、小集団的雰囲気と甘えの関係について述べる。《甘えとは小集団的雰囲気を前提にした人間関係の行動様式であり、それは個人と個人の対応関係というよりは、自己中心的な行動様式で》ある(雰囲気に傍点、「タテ社会の力学」)。甘えは、幼児期の母子関係を原型とする二者関係であるが、小集団は、それを持続させる装置であろう。


   


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