風子思考集成 - 2010/11

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2010年11月27日(Sat)▲ページの先頭へ
禁書
《禁書は深いんじゃなくて、浅い器に山盛り》(伊藤かな恵part24-156)なのであるが、上条が山盛りにしているのは、中二病の教説である。これが浅いのは言うまでもない。しかし、それでも爆発的に売れているようであり、中二病の教説に需要があることは認めざるを得ない。そうでなければ、坂本真綾が売れることなどないだろう。
坂本真綾は、永遠の14歳である。永遠の17歳という人は多いが、永遠の14歳といえるのは彼女だけである。永遠の17歳と同じく、永遠の14歳も、一つの世界観といえる。それは、ひと言でいえば、セカイ系である。このような印象は、自作の歌詞によるものと思われる。これに、透明感のある声が加わる。歌う声と言葉が、それぞれピュアということになる。菅野に8割くらい依存している(いた)などといわれるが、菅野も真綾ほどうまくプロデュースできた例はないことから、誤りであることが分かる。

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2010年11月20日(Sat)▲ページの先頭へ
夕焼け
吉野弘「夕焼け」は、かつて電車がどのような空間であったのかを伝えている。満員電車で席を譲ったことから、少女がいやな目に会うという詩である。概説すれば、老人に席を譲ったところ、次の駅でその老人が降りので、空いた席にまた座ったところ、また老人が寄ってきたため、また譲ったところ、その老人も次の駅で降りたので、また空いた席に座ったところ、また老人が寄ってきたが、もう今度は譲らなかった、というものであり、コントを思わせる。
かつて電車という空間では、相互監視が行われていた。この詩の電車では、いちど席を譲ったのだから、いまいちど譲るようにというまなざしが、少女に向けられる。老人に席を譲るべきであるという規範は、全ての人に向けられるはずだが、相互監視が形成する合意はその都度のものであり、ここで譲るべきは彼女なのである。なぜなら、自分たちは譲りたくないということに加えて、彼女は、いちど譲って、周りのまなざしからその「やさしさ」を賞賛されたわけで、このまなざしに報いるため、賞賛されたことと反する行いをしてはならないからである。このような状況下で、空いた席にまた座るということは、明らかな計算ミスである。嘲笑は免れないであろう(注)。こうしてこの「やさしい」少女は傷ついてしまい、もはや席を譲らない。彼女にも規範といったものはない。
しかし、今や、電車において相互監視が行われているとは、言い難い。人々のまなざしは、小さな画面にしか向けられず、他の人に向けられることはない。
(注)中島義道「うるさい日本の私」を参考にした。同書は、日本における初めての闘う哲学書であろう。

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2010年11月13日(Sat)▲ページの先頭へ
相互監視
区切られた集団では、法の代わりに相互監視が存する。そして、相互監視が安定するために、その想像上の中心が形成される。山本七平はこういっている。《状況倫理という日常性は、否応なくここに行きつき、ここに到達して一つの安定を得る。「一人の絶対者、他はすべて平等」の原則》(「「水=通常性」の研究」)。状況倫理とは、法ではなく、その都度の状況により、ものごとの正否が決まることをいう。その都度の状況に基づき、全員で判断するが、その際に相互監視に由来する力学が働くことになる。しかし、その都度というのでは安定しないので、想像上の中心が形成される。
相互監視が行われ得る範囲は、限られている。そこで、《この世界は結局、いくつかの集団に分裂し、その集団の間には、相互の信頼関係は成り立ちえなくなる。一教師・オール3生徒は、他のクラスと遮断してはじめて成り立つ》(同前)。

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2010年11月06日(Sat)▲ページの先頭へ
未開社会
日本社会には未開社会の感覚が残っているといわれる。《日本人は、復活や輪廻を信じてもいないし、現世中心主義に徹するほど合理的でもないので、何となく死後の世界があるような気がしている。未開社会にはよくあるタイプの感覚ですが、文明国にしては素朴すぎます》(橋爪大三郎「世界がわかる宗教社会学入門」)。複雑社会である日本社会に、未開社会の感覚が見られるのはおかしいとも思える。しかし、日本社会は、集団が未だ開かれていないという意味で、未だ、未開なのである。つまり、人は、一つの集団から出ず、終生そこで過ごす。未開社会における自然との合一といった感覚は、豊かな自然が齎しているというわけではない。集団が開かれていないことが、人と人のあいだを近くし、それが人と自然のあいだを近くしているのである。

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