風子思考集成 - 2011

fuukoについて




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2011年07月29日(Fri)▲ページの先頭へ
農村
小熊英二「〈民主〉と〈愛国〉」は、ある人の戦争体験がその人の戦後思想を規定したという図式で書かれているが、そのうち大塚久雄の戦争体験は、農村に疎開したというものである。農村で大衆の実像を知ることが彼の戦後思想を規定したという。こうなると、丸山のように徴兵され、農村出身者の暴力に苦しまなくとも、戦後啓蒙思想を作るには民衆の実像を知れば足りることになるだろう。丸山、大塚、川島は戦後啓蒙思想のトライアングルといえようが、川島も戦前に農村を調査していた。
しかし、このように考えるならば、農村出身であることに意味が出てくる。農村出身であれば、大衆の実像を知っていることになり、そのことが彼の思想に何らかの影響を与えていると思われるからである。「単一民族神話の起源」で取り上げられている和辻や津田などは農村出身であり、村の長老のようなものとして天皇を捉えたということである。農村でなくとも、下層出身であれば同じであろう。ゆえに、吉本などは大衆の実像を知っていたのであり、これが彼の思想を左右していないとは考えられない。


2011年07月22日(Fri)▲ページの先頭へ
跡形
理念らしきものにムードしかないことは、その崩壊過程を規定している。社会党は与党になったときに、自衛隊は合憲であると考えを改めた。自衛隊は違憲という主張は、野党であることという事実が支えていたということになる。与党がそれを主張することは、世間のムードが許さないのだろう。また、朝日新聞は、911後にアフガン空爆はやむを得ないとする社説を掲載するが、これは理念らしきものの終わりを告げている。それに対する抗議に対して、幹部の一人は「一千万部近い部数があるんだから、二百いくつの抗議は関係ない」(福田和也・大塚英志「最後の対話」)といった(らしい)。世論が地殻変動を起こしており、アフガン空爆を支持していたということだろう。前提となる事実が変われば、ムードは変わるのであり、そうなると理念らしきものは吹き飛んでしまう。しかし、前提となる事実とムードをつなぐ論理がないために、ムードが消えると、何も残らない。戦後的なものは跡形もなく消えてしまった。


2011年07月15日(Fri)▲ページの先頭へ
ムード
日本社会では、理念が語られたとしても、すぐにタブーと化してしまい、思考はそこで止まる。理念を賞賛するムードが作られるが、その底には相互監視があり、批判することはできなくなる。戦後における理念は戦争放棄であった。批判する右はカルト扱いされたと、大塚英志はどこかで書いている。もっとも、ムードが作られるに際しては、それを支える事実がなければならない。日本政府に戦争遂行能力はないこと、そのような政府に徴兵されるのは危険であること、そして米軍が駐留していることなどの事実がそれである。しかし、戦争放棄が理念のようなものたりえた理由は、別に考えなければならない。
日本国憲法の戦争放棄は世界政府を前提としている。あらゆる国家が戦争を放棄したとしても、武装している存在はどこかになければならないからである。戦後の日本人は世界政府を肯定したといえる。しかし、世界政府はなぜ肯定されたのだろうか。戦前は、日本が本家となって中朝などを分家とし、アジアの盟主になることが夢見られた。しかし、敗戦はその夢を捨てさせた。そこで、その夢は、世界政府が本家となり、日本は分家となるというふうに掏り返られたのである。家的な包摂そのものは捨てられてはいない。こうした理路により、戦争放棄は理念のようなものたりえた。


2011年07月08日(Fri)▲ページの先頭へ
丸山(ら)
小熊英二「〈民主〉と〈愛国〉」は浩瀚なものだが、平たくまとめれば、次のようになるだろう。戦後民主主義は六十年代の産物であり、それより前は、民主と愛国が一致した普通の民主主義が求められていたし、丸山眞男もそれを求めていた、と。言葉を換えれば、丸山(ら)は普通の国を志向していた。普通の国では普通の民主主義が行われるものである。
小熊氏の論旨はおおむね正しいのだろうが、なぜ民主主義という理念が戦後民主主義に滑り落ちていったのか、あるいはそもそも戦後民主主義とは何だったのか、といった問いに答えるものではない。
しかし、これらは難しい問いではない。前者の問いの答えは、日本的なものに侵食されたというものである。このような答えを小熊氏は認めないだろうが。後者の問いには、戦後民主主義とは日本版民主主義であると答えれば足りるだろう。従って、戦後民主主義は、ことさら戦後のものではない。民主主義といえるかどうかも疑わしい。宮本常一を引いて、戦後民主主義と同じことは村でも行われていたという論者は正しい。


2011年07月01日(Fri)▲ページの先頭へ
詠嘆
新聞の社説は落ち着きどころを見つけられればそこに落ち着き、そうでないときはいろいろな意見をまとめているだけのことが多い。相互監視社会では言い過ぎると嘲笑の的になるので、落ち着きどころを見いだせればそれでいい。それ以上の思考をした痕跡は見当たらない。新聞に批評は存しないということは、新聞について考えるときのスタート地点であろうが、その由来は相互監視社会にある。新聞の社説は読まれていないが、それは当然である。しかし、新聞の朝刊コラムはそれなりに読まれていると思われる。
新聞の朝刊コラムは、社説と同じく論説委員が書いており、社説と同じ論旨である。しかし、社説に輪を掛けて独特の書き方をしている。パターンがあり、それは、枕に引用を置き、トピックにつなげ、それから次々と目先を変え、最後に枕の引用の呼応めいたことを書いて終わるというものである。これは起承転結などという生易しいものではない。論のつながりは前後にしかない。従って、起次次次とでもいうべきものである。そして、最後に来る枕の呼応は、詠嘆の余韻を残す。とはいえ、トピックで示される落ち着きどころについては、少しの反論も許していない。相互監視社会の落ち着きどころである以上、当然のことではあるが、詠嘆に反論を塗りこめる働きがあることは、注目されていいかもしれない。


2011年06月24日(Fri)▲ページの先頭へ
世帯
新聞は世帯に配られる。その世帯が均一であることは新聞にとって大きな意味がある。そのことが世界で類を見ない部数を生んでいるからである。新聞の区別がないのは、世帯が均一であるがゆえに、それが求めている情報は変わらないからである。世帯は、世帯主がおおむねどこかの会社に属しているので、会社社会の実情を知っておかなければならないし、そこからの脱落がどのように嘲笑されているかも知っておかなければならない。村社会のコミュニケーションは世帯のあいだでの相互監視であったが、新聞は国レベルの相互監視を世帯に直接伝える。
新聞のあいだでも相互監視が行われているので、あらゆる新聞が似てくる。新聞には、あらゆることが書かれている。相互に真似ると、そういうことにしかならない。世帯が均一であるように、新聞も均一である。


2011年06月17日(Fri)▲ページの先頭へ
濁点
マスコミがマスゴミと呼ばれ始めたのは、ネット、とりわけ2ちゃんねるが出来てからである。マスコミは日本社会の実情を映してきたが、事実は犯罪を除いて伝えていない。これは、相互監視社会におけるマスコミのありようとしては、当然のことである。このようなマスコミのありようがどうしょもないことは明らかであるが、それゆえに濁点が付けられたわけではない。そうだとすればネットに至るまでに付けられていたはずである。
2ちゃんねるにおいて、レスは家族的構成を保っている。しかし、そのまなざしは相互監視社会のそれである。そのまなざしは内にも向けられているが、おおむね外に向けられている。つまり、2ちゃんねらーは嗤いたいのである。情報を集めて、貶すところを見つけることにかけては、2ちゃんねるの右に出るものはない。その情報をどこから集めるのかというと、マスコミからである。にもかかわらず、マスコミは嗤われる。マスコミは嗤いをコントロールしていたが、逆に嗤われることになった。犯罪報道における犯罪者のような扱いである。どうしてこうなったのか。おそらく、マスコミは相互監視の最上のレイヤーであったが、2ちゃんねるによってそこから追われたのだろう。2ちゃんねるが最上審のように聳えているわけである。


2011年06月10日(Fri)▲ページの先頭へ
アウトプット
情報のインプットは記者クラブを通じて行われるが、ではアウトプットはどうなのか。アウトプットは二つに分かれる。犯罪記事とその他である。大塚英志はどこかで、一面はどれだけ読んでも分からないが、社会面は一読すればはっきりと分かる、というようなことを書いているが、このように分けることは正しい。大塚氏のような一面をどれだけ読んでも分からないという読解力こそ求められる。しかし、これらは同じコインの表裏なのであることを見逃してはならない。
犯罪記事以外は、諸アクターが相互監視している中で、こういうことにしておこうということが書かれているに過ぎない。この実情を国民は受け入れなければならない。従って、何を書いているのか考えても分からない。しかし、犯罪記事には事実が書かれている。従って、はっきりと分かる。これは相互監視している国民のまなざしが集中する先を作り出し、嘲笑していいものを生け贄として差し出すものである。これも相互監視社会の外というわけではない。犯罪記事は、事実と実情が合致する特異点なのである。このように、アウトプットのありようは記者クラブのありようと底通している。


2011年06月03日(Fri)▲ページの先頭へ
クラブ
記者クラブは、村の原理に基づく。村は、同類の集まりであり、相互監視することで融和を乱すものを排除しつつ、統治機構と接触していた。記者クラブは、同類の集まりであり、他を排除した上で、相互監視することで融和を乱すものをも排除しながら、取材対象である統治機構と独占的に接触する。同じ仕組みであることが窺える。クラブなどというと英国紳士を思わせるが、そんな高尚なものではない。
この仕組みは、記者にとっては取材対象への接触を独占できる利益があり、取材対象にとっても記者をコントロールできるという利益がある。しかし、これでは監視する側とされる側の癒着は避けられない。その関係を続けるべく、監視する側の間で相互監視が行われる。そのため、取材対象によって不当に記者が排除されても、抗することはない。特ダネといっても、取材対象から独占的に情報を提供されるものであるから、癒着を示しているだけである。褒められるものかどうかさえ疑わしい。


2011年05月26日(Thu)▲ページの先頭へ
シチズン
裁判員制度は、市民感覚を裁判に反映することを目的としているとされる(もっとも法文にそのような目的が書かれているわけではない)。どこかこれには違和感がある。おそらく、それは市民という言葉が用いられていることによるものだろう。市民をシチズンシップというエートスを備えているものだと捉えれば、現在の日本にそのようなものが存在しているかどうかは疑わしい。にもかかわらず、市民感覚を反映するという言い回しは、そのようなものが存在することを前提にしている。おそらくは、批判しがたいような言葉を選んで用いているのだろう。しかし、どのような舶来の言葉を用いても、対応するエートスが存在していないので、しっくりと来ることはないだろう。存在しているとすれば村人であり、ムラビトシップでしかない。それぞれの人がどこかの村に属している。その限りで裁判官も普通の人と些かも変わらない。彼らが属しているのは裁判村である。


2011年05月18日(Wed)▲ページの先頭へ
高天原の犯罪
天城一「高天原の犯罪」は、天皇制批判を行っている(内容に触れます)。衆人は「天皇」を拝んでいたが、その最中に殺人が行われる。衆人は「天皇」を畏れ多いので見ていなかったが、隣が動けば分かったはずである。答えは、犯人は「天皇」というものである。「天皇」は監視されておらず、自由に動き得た。衆人は相互監視しており、動くことは出来ないが、「天皇」は相互監視の外にいる。
このように、相互監視には盲点がある。つまり、監視が行き届かないところが出来てしまう。しかし、相互監視している集団そのものが他を害するというふうに捉えなければならない。先の戦争がそのようなものであった。天皇は相互監視の効果に過ぎない。従って、天皇を批判するのであれば、それを生み出すムラ社会を批判すべきであり、天城氏にはそれが出来ている。


2011年05月11日(Wed)▲ページの先頭へ
偏ったもの
家しか見ない日本文化論は、家連合について考えたことを社会に敷衍している。富永健一がいうように、有賀「日本家族制度と小作制度」を農村社会学の研究と考えるのは誤りで、家連合についてしか考えていないのだから、同書は家族社会学の研究である。しかし、村といっても、家連合の集まりに過ぎないので、家連合に見られる相互扶助の裏返しである相互監視を見れば、家連合だけでも日本社会の原型になるだろう。しかし、相互扶助しか見ていないので、偏ったものとなってしまった。


2011年05月04日(Wed)▲ページの先頭へ
ベルク
《閉鎖性と相互浸透性という相反する二重性格は、日本的集団の観察者にとって、最も重要かつ解決困難な問題の一つである》(ベルク「空間の日本文化」)。この問題を考えてみよう。家は閉鎖しており、凝集していることから、メンバーは家と一体のものとして自らを意識するようになる。その外部とは確たる区別がある。しかし、家と外部は相互浸透している。閉鎖しているのならば外部から影響を受けないはずではないか。これを解く鍵になるのは、家が小さく、かつ孤立していることである。それゆえ、外部には従わざるを得ない。そこで、外部からのまなざしを常に意識せざるを得ず、家に外部が浸透してくる。


2011年04月27日(Wed)▲ページの先頭へ
イエとムラ
「タテ社会の力学」の第二部「集団と集団」は、集団相互の決定プロセスを、クラゲに喩えることで説明している。これは、ムラ的なものを捉えたといっていい。そして、集団の中に小集団が見出される。この小集団における決定プロセスも、集団相互におけるものと相似である。この小集団はイエに当たるものだろう。こうしてイエとムラが揃う。


2011年04月20日(Wed)▲ページの先頭へ
垂直
「タテ社会の人間関係」の英語版“Japanese Society”は、誤解を招いた。日本社会はツリー状の社会であるという誤解である。これは、中根がタテということを強調しすぎ、かつ、タテということと垂直的ということが区別せずに読まれていることに由来する。
中根は、タテとヨコを対比する。父系制においては、兄弟姉妹が連帯するヨコの関係が見られるとする。しかし、父系制の家族には、垂直的な関係も見られる。タテは、垂直の不在から来る。そして、垂直があるからこそ、水平がある。


2011年04月12日(Tue)▲ページの先頭へ
分からなくもない
中根千枝「タテ社会の人間関係」によると、日本社会では、人は一つの集団の枠の中に閉じ込められており、その枠を維持するものとしてタテの原理がある。理論の元となっている有賀喜左衛門は、イエ内部の関係、イエ連合におけるイエとイエの関係、さらにその外の関係は相互規定しており、これらの関係は全てタテであるとする。これなら、分からなくもない。しかし、中根は、イエよりも大きな集団を、イエのような小集団なしに説明しようとする(注)。イエの内でも外でも同じである以上、イエを除いても構わないということなのだろう。
(注)イエが原型であるとは言っている。


2011年04月05日(Tue)▲ページの先頭へ
ディラックの海
藤田省三「天皇制国家の支配原理」は、絶対主義国家たらんとした明治国家が最下層に到達した途端に、逆に最下層の原理によって最上層まで染めあげられてしまったという顛末を物語る。これは、はっとするくらい鮮やかなイメージである。評論もイメージを生まなければならないことを、学び得る。
もっとも、そのような絶対主義が実在したかは疑問である。しかし、最下層の原理、つまりムラの原理が天皇制国家の支配原理であることが、これにより見通せる。天皇制国家は影にすぎず、天皇制社会こそ本体であるディラックの海なのである。過誤があるとすれば、むしろ、ムラ社会の原理を明らかにできていないことであろう。タテ社会的なことはここでもいわれているが、それは最深部ではないのである。


2011年03月29日(Tue)▲ページの先頭へ
ない
日本文化論は、日本の特殊性を認めたうえで、それについて同じことばかり繰り返しており、外国との関係がうまくいっているときはそれがプラスに評価され、うまくいっていないときはマイナスに評価されるだけであると考えられている(参考、青木保「「日本文化論」の変容」)。もちろんそれは正しいが、ブレイクスルーがないわけではない。
それは、二つの「ない」の発見である。一つは、丸山眞男による思想が「ない」ことの発見である。しかし、丸山はなぜ思想が「ない」のかを解明することが出来ず、思想を不在にする「古層」があるというところで力尽きてしまう。これを解き明かしたのが、もう一つの「ない」の発見、つまり、中根千枝による血縁集団が「ない」ことの発見である。
血縁集団がないので(また、労働集約的な稲作を行っているので)、家族や近隣集団やムラといった近くでまとまらざるを得ない。近くしかないので、それを束ねるような思想はいらない。中根ははっきりこういっているわけではないが、このような含意があることは明らかである。


2011年03月22日(Tue)▲ページの先頭へ
小室
小室直樹「危機の構造―日本社会崩壊のモデル」は、日本社会の構造に関する人類学の知見を社会学の知見から見直している。中根千枝は、日本では、一つの集団にしか所属できないので、メンバーは集団と一体化してしまうとする。これを社会学のタームで記述すれば、日本社会の集団は、機能集団であるとともに共同体であるということになる。このような集団では、メンバーは集団のウチのことしか考えなくなる。小室は、このような集団の集合した社会構造は近代に適合しないことを示す。なぜなら、近代は機能が分化しているが、それぞれの機能を受け持つ機関が、そのウチのことしか考えていないようでは、社会として噛み合わないからである。この点で、戦後は、戦前と些かも変わっていない。小室は、自分の受け持っていることだけ考えていれば、社会が適切に作動するであろうと考えが蔓延しているとし、それを盲目的予定説と命名している。中根は「タテ社会の力学」で、それでも社会として噛みあってゆくことを示そうとしているが、それは国のソトとの関係を度外視し得た頃のことであろう。


2011年03月15日(Tue)▲ページの先頭へ
5年史
「DVD激薄ビデオ5年史」(東京三世社,2004年)なるムックがある。疑問なのは、5年史というところだろう。歴史というには短すぎ、なぜそこでまとめるのか分からないからである。しかし、この疑問は、激薄というジャンルがそのくらいしか持たなかったということを考慮に入れると、氷解する。このムックは、終幕が予感される状況において、散逸させるには惜しいと考えたのか、まとめられた。
激薄とは、モザイクがあるか分からないくらいの状態をいう。世紀末に、このようなビデオが出だした。このようなものが出てきたのは、おそらくは、ネット化によるものと思われる。ネットでモザイクなしの写真なら容易に見ることができるようになった。しかし、未だ動画を見ることができるまでには至っていない。そこで、このようなものが出てきたのではないだろうか。モザイクがないわけではないのは、官憲への配慮であろう。しかし、摘発された。ならば、作り手としては、ネットで動画を配信することができるようになれば、摘発されない海外から配信すればよい。それが04年ころなのだろう。こうして、激薄は、その短い歴史を終えた。


2011年03月08日(Tue)▲ページの先頭へ
《声ヲタって1人の声優しか応援してない奴多いよな。声優個人板の必死チェッカーみたら俺みたいに色んな声優を応援してる奴がすげー少ないわ》(井上麻里奈にハマリナPart58)。必死チェッカーを用いると、同じIDの同じ日の書き込みを一望できる。丹念に読んでいくと、同じスレにしか書き込んでいない人が多いということが分かる。
2ちゃんねるのスレは、殺伐としているようでいて、実は馴れ合いである。そこには、小集団的雰囲気がある。つまり、イエに擬しうる小集団である。スレとは、イエと同じく所属するものである。いくつものスレに所属できようが、通常は一つに絞られる。mixiは、馴れ合っているようでいて、実は殺伐としており、2ちゃんねるとは逆である。もちろん、私は、mixiより2ちゃんねるが優れてるなどと主張したいわけではない。馴れ合いと殺伐はコインの裏表でしかない。
スレがイエに当たるとすれば、板はムラに、2ちゃんねるはクニに当たる。つまり、2ちゃんねるは、日本社会の構成を模している。クニである2ちゃんねるは、イエであるスレが集まって出来ており、大家である。従って、公である。なぜなら、《「わたくし」に對する「おほやけ」は大家(おほやけ)を意味する》(「國体の本義」)からである。ムラである板には、さほど一体感がないように思われるが、《名塚結婚で声優個別スレ全体が殺気立ってきてるな》(明坂聡美スレその24)というようなことも稀にある。


2011年03月01日(Tue)▲ページの先頭へ
乱歩
イエにおけるウチとソトの分割は、個人にも転写される。個人も、イエと同じく、ソトに向けては、体裁を整えるが、ウチでは、欲望が渦巻いている。私小説は、こうした欲望自然主義のありようを観察したものだが、乱歩は、欲望自然主義に基づく想像を書いた。それが私小説よりも読まれるのは、当然であろう。(乱歩の作品に広く触れます)
乱歩の作中人物は、ソトに向けては、見かけにより騙そうとする。乱歩は、探偵である明智小五郎とともに怪人二十面相を作り出したが、彼らは双子のようなものであり、どちらも変装する。変装とは、見かけにより騙すということである。仮面も好まれる。一人二役も乱歩の好みである。見かけの裏がどうなっているにも、当然のことながら興味を寄せており、作例としては屋根裏の散歩者がある。これは遊歩者とは違う。心理試験は、心理をいかに見かけにより隠すか、ということが試みられている。D坂の殺人事件は、まなざしがいかに恣意的かを語る。見かけを信じてはいけないということであろう。化人幻戯は、犯人が見かけを信じさせようとするものである。カーの皇帝のかぎ煙草入れとは違う。
ソトに向けては、見かけで騙そうとする反面、ウチでは、淫らな欲望が渦巻いており、それは実現される。押絵と旅する男は、自己の想像の中に入ってしまう男の話であり、逆に、パノラマ島綺譚は、自己の想像を外に作り出してしまう男の話である。しかし、作り出されたものも、見かけ倒しである(注)。
乱歩は、大正を象徴している。大正は、見かけに滑り落ちていった。探偵小説は、こうした地点から始まっている。
(注)http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0599.html


2011年02月22日(Tue)▲ページの先頭へ
クイーン
飯城勇三「エラリー・クイーン論」は、後期クイーン的問題を今までにない視点で捉えている。後期クイーン的問題を捉えるには、まず、クイーンの推理法を理解しなければならない。探偵としてのクイーンは、手がかりに基づいて、論理的な推理を行う。初期クイーンは、これを極めている。後期クイーンの犯人は、偽証拠を用いて探偵を誤導するが、手がかりに基づく論理的な推理を行う探偵が相手でないのであれば、このようなことは出来ない。後期クイーンの犯人は、探偵の分身なのである。クイーンの二人が、従兄弟であることも影響しているのかもしれない。
では、後期クイーン的問題をどのように捉えるべきか。たしかに、後期クイーン的問題をゲーデルの証明のように考えれば、つまり、偽証拠であることを明らかにするメタ証拠も偽証拠である可能性を考慮すれば、決定不能の状態に陥る。しかし、犯人は偽証拠によって探偵を誤導しようとしており、それを用いて探偵を騙そうとしているうちは、別の誤導を誘う偽証拠を出したりはしないはずで、つまり、メタ偽証拠を作るメリットはない。偽証拠が偽であることが露見した時点で、また別の偽証拠を出せばいい。探偵は、偽証拠に騙されているふりをして、犯人の裏をかくことも出来るだろう。このように、後期クイーンの世界は、犯人と探偵の言語ゲームと見做しうる。ウィトゲンシュタインは、《私の問題は、例えばゲーデルの証明について語ることではなく、そのわきを通って語ることである》(「数学の基礎」、中村秀吉・藤田晋吾訳)といっているが、クイーンも、ゲーデルの証明のわきを通っている。
しかし、言語ゲームでは対処できない犯人も存する。「最後の一撃」(内容に触れます)のように、偽証拠が指している人物にしかその偽証拠を作れないという状況を作られると、宙吊りに陥る。つまり、自己言及を行う犯人には、対処できない。結城氏は、そのように考えていないが。


2011年02月15日(Tue)▲ページの先頭へ
召喚
小熊英二「〈民主〉と〈愛国〉」は、六十年ころに思想上の断層が存しており、それまでの思想はそれからの思想とは随分と違ったものであったことを明らかにする。六十年ころにヘゲモニーが丸山から吉本へ移ったことは、常識であろう。しかし、その内実は、必ずしも明らかではない。戦後民主主義は一般的に国家を嫌悪している印象であり、また、丸山は戦後民主主義を代表する人物であるかのように思われているが、小熊によると、丸山の思想は愛国というカテゴリーで括りうる。国家を嫌悪する戦後民主主義は、断層を経た後に現れた。しかし、六十年代ころに断層が生じた理由は語られていない。
これに答えることは、そう難しくない。丸山は、日本社会はあるべき社会からかけ離れていると考えたが、吉本は、大衆の望むようにすればいいという前提に立ち、その上で丸山が希求するあるべき社会など大衆は望んでいないとした。大衆は六十年ころまでは、丸山に付いており、そのころまでは、日本社会に懐疑を抱いていたことが分かる。しかし、六十年ころに、日本社会への懐疑が消失する。このころ、日本社会は会社社会化し、経済も軌道に乗ったからである。会社は日本の集団原理に則ったものであり、大衆の日本社会への懐疑はこれにより吹き飛んでしまう。そして、日本の集団原理は、集団で閉じるものであり、国家など考えずに済むように出来ている。その原理に立つのなら、民主にせよ愛国にせよ国に関わるものであるから、丸山を切るのは、理路としては分かる。
戦後に急成長できたのは、敗戦により集団原理そのものが揺らいだわけではないからである。しかし、日本の集団原理は急成長は出来ても、国レベルではすぐに朽ちてしまう類の集団原理である。明治維新から敗戦までと同じように、敗戦から第二の敗戦とも称される事態に陥るまでは、僅かな月日しか経過していない。小熊が戦後直後の思想を召喚したのは、第二の敗戦の直後であり、時宜を得た著作といえる。


2011年02月07日(Mon)▲ページの先頭へ
小熊
小熊英二「単一民族神話の起源」によると、戦前の家族国家観は、イエを、血のつながりのない養子を属させることが出来、彼らをも同質(ホモジニアス)にする装置と考えていた。この考えに従い、朝鮮や台湾は、養子のようなものとして扱われた。
家族国家観は、イエを正しく捉えてはいる。日本社会の基底にあるイエは、孤立した小集団であり、どれも似ている(参考、中根千枝「タテ社会の力学」)。その中で、人は同調することを強いられる。血のつながりは関わりない。同質だから同調するというより、同調するから同質なのである。同調する同質な人が集まり、日本は出来ている。日本が同質であることは、神話ではなく、現実である。


2011年01月31日(Mon)▲ページの先頭へ
ビフォーアフター
磯崎新は、「アメリカの住宅はかなり画一的様式だが、そこに住む住民の生活はそれぞれに個性的である。日本の住宅は様式がばらばらであるが、住民の生活は没個性的である」という意味のことをいっている(斎藤環「家族の痕跡」)。日本の住宅において住民の生活が没個性的なのは、小集団として凝集しているからであろう。日本社会が均質である理由を、中根千枝「タテ社会の力学」は、社会の基底にある小集団が似ていることに求めている。「タテ社会の人間関係」では、日本社会が均質であることを前提としていたが、その由来を突き止めたことになる。
大改造!!劇的ビフォーアフターに出てくる家屋は、狭いことにおいて共通する。狭いことがあらゆる問題を生んでいる。しかし、ビフォーにおける家屋は狭いものの、そこに住む家族が不幸という感じではない。家屋が狭いほうが、家族は凝集するからであろう。古きよき家族がそこにはある。しかし、改築して家屋を広くしてしまえば、家族は拡散してしまう。現在、日本の家屋における一人当たりの床面積は、ヨーロッパと比べて遜色ないところまで来ている。広くなったのである。しかし、そこに住む家族がもはや凝集していないことは明らかである。ビフォーアフターの人気は、家屋の狭さが古い家族を保存している姿を捉えたからであろう。サザエさんの声優である加藤みどりのナレーションも、郷愁をかきたてる。そこで、改築するにしても、狭さを残しつつ、狭さのもつ悪いところをなくさなければならない。狭さなき狭さとでもいうべきものが望まれている。


2011年01月24日(Mon)▲ページの先頭へ
本陣殺人事件
戦前において、日本では密室が作りにくいといわれていた。日本家屋は、内部における区切りが襖などによるものであり、固定的でないからである。しかし、日本家屋といえども、外部とは区切られており、これは用いうる。横溝正史「本陣殺人事件」(内容に触れます)は、この点に着目した。さらに、雪を降らせ、家屋の周りに足跡がないことにして、不可能性を倍化させる。家屋そのものが密室として捉えられている。これは、イエの本質を鋭く突くものである。
イエは外部から孤立しているがゆえに、内部で人々は凝集している。「本陣」では、家屋そのものが密室として捉えられているが、これはイエの孤立性を表している。しかし、特筆すべきは、内部における凝集をも捉えているということである。真相は、新妻が処女ではなかったので、新郎が無理心中を図ったというものであるが、イエでは、内部で凝集しているがゆえに、自他の区別がなくなり、無理心中が起こりうる。イエ制度が無理心中を生じさせているのである。この点を「本陣」は捉えた。


2011年01月16日(Sun)▲ページの先頭へ
とともに
天声人語1月11日付を読んでみよう。連邦下院議員を狙った銃乱射事件が取り上げられている。第四段落に、曰く、《「この事件は巻き込まれた人々の悲劇以上のものだ。わが国全体の悲劇である」とオバマ大統領は憤った。狙われたのは民主主義だ、との認識からだろう。とともに事件は、3億丁ともいう銃を日常に潜ませる米社会の、闇の深さを示してもいる》。分からないのは、「とともに」という接続詞である。「狙われたのは民主主義だ、との認識」と「米社会の、闇の深さ」がどうして並置出来るのか、分からない。このコラムの前半は、銃で民主主義を脅かすのは悪であるというものである。これに異論はないだろう。後半は、銃は民主主義を脅かしうるので悪である、とでも要約しうるものである。この「とともに」は、前半と後半の蝶番に当たる。しかし、民主主義を脅かしうるから悪であるというのは、論理としておかしい。可能であることと実現することとの区別が付いていない。だからこそ、平然と並置することが出来るのであろう。悪をなしうるから悪であるということになると、あらゆるものを規制出来ることになり、規制するかしないかは全くの恣意に委ねられることになる。


2011年01月09日(Sun)▲ページの先頭へ
こどもニュース
「そうだったのか!池上彰の学べるニュース」など、池上彰をよく見かけます。これまでなら考えられなかったことです。ニュースはどのようなプロセスを経て、池上彰に至ったのでしょうか。ニュースの転換点は久米宏であり、彼はそれまでの「流すニュース」を「茶化すニュース」に変えました。次に、それを引き継いだワイドショーに、突如として怒り出すコメンテーターが現れて、「切れるニュース」になりました。それに釣られてか、古舘のように切れるキャスターまで現れました。これはもう最悪です。しかし、出来事を茶化したり切れたりでは、もうどうしょもないところまで来たので、ニュースから学ぼうという姿勢に転じたのでしょう。「学べるニュース」というわけです。これまでは、基本的なことがあまりに共有されてこなかったわけで、彼の躍進は、それではもはや進んでいけないという時代の要請から来ていると見てよいでしょう。自分らは市民であるなどといいつつ、欧米ならこどもでも知っていることを知らないのであり、「こどもニュース」から始めるしかありません。
彼のフラットな語り口にも注目しましょう。これまでは何ごとにせよ重厚に語っていればよかったわけです。しかし、今やそれでは聞く耳を持たれません。そこで分かりやすく語ろうというわけです。もっとも、重厚に語られてきたことに中身があったかは些か疑問です。小林秀雄にしても、言っていることは単純であり、言い方で煙に巻いて重厚そうに見せてきただけということなのかもしれません。重厚であるにせよ、フラットであるにせよ、ユーモアが欠けていることは貫かれています。


2011年01月02日(Sun)▲ページの先頭へ
ダグラム
ダグラムを見て驚くのは、太陽の牙のメンバーが全くの書き割りであるということである。エピソードにより掘り下げられることもない。このようにキャラは立っていないが、キャラは書き割りとしての性格により相互に組み合わさっており、小集団としての一体感はある。キャラを書き割りにすることで、まんが・アニメにおける小集団がどのようなものかを浮かび上がらせている。
この小集団は、しかし、大人たちの駒に過ぎない。子供たちの層と大人たちの層は画然と分かれており、子供たちの小集団は大人たちの争いに用いられているだけなのである。いわば、先生の喧嘩に生徒が借り出されているようなものであり、先生が話し合えばそれで済んでしまう。大人たちの策謀が、アニメであるにもかかわらず、執拗に追われ、子供たちが印象に残らないのに対し、大人たちは、これも書き割りではあるが、印象に残ることになる。
このように子供たちの層と大人たちの層が乖離したことで、かえってZZのような子供たちだけで世界を変えていくような傾向を準備したともいえる。二つの層が関わらないのであれば、どちらかを捨てるべきだが、子供たちを捨てるわけにはいかないからである。


   


人手です。

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