風子思考集成 - 2011/01

fuukoについて




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2011年01月31日(Mon)▲ページの先頭へ
ビフォーアフター
磯崎新は、「アメリカの住宅はかなり画一的様式だが、そこに住む住民の生活はそれぞれに個性的である。日本の住宅は様式がばらばらであるが、住民の生活は没個性的である」という意味のことをいっている(斎藤環「家族の痕跡」)。日本の住宅において住民の生活が没個性的なのは、小集団として凝集しているからであろう。日本社会が均質である理由を、中根千枝「タテ社会の力学」は、社会の基底にある小集団が似ていることに求めている。「タテ社会の人間関係」では、日本社会が均質であることを前提としていたが、その由来を突き止めたことになる。
大改造!!劇的ビフォーアフターに出てくる家屋は、狭いことにおいて共通する。狭いことがあらゆる問題を生んでいる。しかし、ビフォーにおける家屋は狭いものの、そこに住む家族が不幸という感じではない。家屋が狭いほうが、家族は凝集するからであろう。古きよき家族がそこにはある。しかし、改築して家屋を広くしてしまえば、家族は拡散してしまう。現在、日本の家屋における一人当たりの床面積は、ヨーロッパと比べて遜色ないところまで来ている。広くなったのである。しかし、そこに住む家族がもはや凝集していないことは明らかである。ビフォーアフターの人気は、家屋の狭さが古い家族を保存している姿を捉えたからであろう。サザエさんの声優である加藤みどりのナレーションも、郷愁をかきたてる。そこで、改築するにしても、狭さを残しつつ、狭さのもつ悪いところをなくさなければならない。狭さなき狭さとでもいうべきものが望まれている。


2011年01月24日(Mon)▲ページの先頭へ
本陣殺人事件
戦前において、日本では密室が作りにくいといわれていた。日本家屋は、内部における区切りが襖などによるものであり、固定的でないからである。しかし、日本家屋といえども、外部とは区切られており、これは用いうる。横溝正史「本陣殺人事件」(内容に触れます)は、この点に着目した。さらに、雪を降らせ、家屋の周りに足跡がないことにして、不可能性を倍化させる。家屋そのものが密室として捉えられている。これは、イエの本質を鋭く突くものである。
イエは外部から孤立しているがゆえに、内部で人々は凝集している。「本陣」では、家屋そのものが密室として捉えられているが、これはイエの孤立性を表している。しかし、特筆すべきは、内部における凝集をも捉えているということである。真相は、新妻が処女ではなかったので、新郎が無理心中を図ったというものであるが、イエでは、内部で凝集しているがゆえに、自他の区別がなくなり、無理心中が起こりうる。イエ制度が無理心中を生じさせているのである。この点を「本陣」は捉えた。


2011年01月16日(Sun)▲ページの先頭へ
とともに
天声人語1月11日付を読んでみよう。連邦下院議員を狙った銃乱射事件が取り上げられている。第四段落に、曰く、《「この事件は巻き込まれた人々の悲劇以上のものだ。わが国全体の悲劇である」とオバマ大統領は憤った。狙われたのは民主主義だ、との認識からだろう。とともに事件は、3億丁ともいう銃を日常に潜ませる米社会の、闇の深さを示してもいる》。分からないのは、「とともに」という接続詞である。「狙われたのは民主主義だ、との認識」と「米社会の、闇の深さ」がどうして並置出来るのか、分からない。このコラムの前半は、銃で民主主義を脅かすのは悪であるというものである。これに異論はないだろう。後半は、銃は民主主義を脅かしうるので悪である、とでも要約しうるものである。この「とともに」は、前半と後半の蝶番に当たる。しかし、民主主義を脅かしうるから悪であるというのは、論理としておかしい。可能であることと実現することとの区別が付いていない。だからこそ、平然と並置することが出来るのであろう。悪をなしうるから悪であるということになると、あらゆるものを規制出来ることになり、規制するかしないかは全くの恣意に委ねられることになる。


2011年01月09日(Sun)▲ページの先頭へ
こどもニュース
「そうだったのか!池上彰の学べるニュース」など、池上彰をよく見かけます。これまでなら考えられなかったことです。ニュースはどのようなプロセスを経て、池上彰に至ったのでしょうか。ニュースの転換点は久米宏であり、彼はそれまでの「流すニュース」を「茶化すニュース」に変えました。次に、それを引き継いだワイドショーに、突如として怒り出すコメンテーターが現れて、「切れるニュース」になりました。それに釣られてか、古舘のように切れるキャスターまで現れました。これはもう最悪です。しかし、出来事を茶化したり切れたりでは、もうどうしょもないところまで来たので、ニュースから学ぼうという姿勢に転じたのでしょう。「学べるニュース」というわけです。これまでは、基本的なことがあまりに共有されてこなかったわけで、彼の躍進は、それではもはや進んでいけないという時代の要請から来ていると見てよいでしょう。自分らは市民であるなどといいつつ、欧米ならこどもでも知っていることを知らないのであり、「こどもニュース」から始めるしかありません。
彼のフラットな語り口にも注目しましょう。これまでは何ごとにせよ重厚に語っていればよかったわけです。しかし、今やそれでは聞く耳を持たれません。そこで分かりやすく語ろうというわけです。もっとも、重厚に語られてきたことに中身があったかは些か疑問です。小林秀雄にしても、言っていることは単純であり、言い方で煙に巻いて重厚そうに見せてきただけということなのかもしれません。重厚であるにせよ、フラットであるにせよ、ユーモアが欠けていることは貫かれています。


2011年01月02日(Sun)▲ページの先頭へ
ダグラム
ダグラムを見て驚くのは、太陽の牙のメンバーが全くの書き割りであるということである。エピソードにより掘り下げられることもない。このようにキャラは立っていないが、キャラは書き割りとしての性格により相互に組み合わさっており、小集団としての一体感はある。キャラを書き割りにすることで、まんが・アニメにおける小集団がどのようなものかを浮かび上がらせている。
この小集団は、しかし、大人たちの駒に過ぎない。子供たちの層と大人たちの層は画然と分かれており、子供たちの小集団は大人たちの争いに用いられているだけなのである。いわば、先生の喧嘩に生徒が借り出されているようなものであり、先生が話し合えばそれで済んでしまう。大人たちの策謀が、アニメであるにもかかわらず、執拗に追われ、子供たちが印象に残らないのに対し、大人たちは、これも書き割りではあるが、印象に残ることになる。
このように子供たちの層と大人たちの層が乖離したことで、かえってZZのような子供たちだけで世界を変えていくような傾向を準備したともいえる。二つの層が関わらないのであれば、どちらかを捨てるべきだが、子供たちを捨てるわけにはいかないからである。


   


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