風子思考集成 - 2011/03

fuukoについて




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2011年03月29日(Tue)▲ページの先頭へ
ない
日本文化論は、日本の特殊性を認めたうえで、それについて同じことばかり繰り返しており、外国との関係がうまくいっているときはそれがプラスに評価され、うまくいっていないときはマイナスに評価されるだけであると考えられている(参考、青木保「「日本文化論」の変容」)。もちろんそれは正しいが、ブレイクスルーがないわけではない。
それは、二つの「ない」の発見である。一つは、丸山眞男による思想が「ない」ことの発見である。しかし、丸山はなぜ思想が「ない」のかを解明することが出来ず、思想を不在にする「古層」があるというところで力尽きてしまう。これを解き明かしたのが、もう一つの「ない」の発見、つまり、中根千枝による血縁集団が「ない」ことの発見である。
血縁集団がないので(また、労働集約的な稲作を行っているので)、家族や近隣集団やムラといった近くでまとまらざるを得ない。近くしかないので、それを束ねるような思想はいらない。中根ははっきりこういっているわけではないが、このような含意があることは明らかである。


2011年03月22日(Tue)▲ページの先頭へ
小室
小室直樹「危機の構造―日本社会崩壊のモデル」は、日本社会の構造に関する人類学の知見を社会学の知見から見直している。中根千枝は、日本では、一つの集団にしか所属できないので、メンバーは集団と一体化してしまうとする。これを社会学のタームで記述すれば、日本社会の集団は、機能集団であるとともに共同体であるということになる。このような集団では、メンバーは集団のウチのことしか考えなくなる。小室は、このような集団の集合した社会構造は近代に適合しないことを示す。なぜなら、近代は機能が分化しているが、それぞれの機能を受け持つ機関が、そのウチのことしか考えていないようでは、社会として噛み合わないからである。この点で、戦後は、戦前と些かも変わっていない。小室は、自分の受け持っていることだけ考えていれば、社会が適切に作動するであろうと考えが蔓延しているとし、それを盲目的予定説と命名している。中根は「タテ社会の力学」で、それでも社会として噛みあってゆくことを示そうとしているが、それは国のソトとの関係を度外視し得た頃のことであろう。


2011年03月15日(Tue)▲ページの先頭へ
5年史
「DVD激薄ビデオ5年史」(東京三世社,2004年)なるムックがある。疑問なのは、5年史というところだろう。歴史というには短すぎ、なぜそこでまとめるのか分からないからである。しかし、この疑問は、激薄というジャンルがそのくらいしか持たなかったということを考慮に入れると、氷解する。このムックは、終幕が予感される状況において、散逸させるには惜しいと考えたのか、まとめられた。
激薄とは、モザイクがあるか分からないくらいの状態をいう。世紀末に、このようなビデオが出だした。このようなものが出てきたのは、おそらくは、ネット化によるものと思われる。ネットでモザイクなしの写真なら容易に見ることができるようになった。しかし、未だ動画を見ることができるまでには至っていない。そこで、このようなものが出てきたのではないだろうか。モザイクがないわけではないのは、官憲への配慮であろう。しかし、摘発された。ならば、作り手としては、ネットで動画を配信することができるようになれば、摘発されない海外から配信すればよい。それが04年ころなのだろう。こうして、激薄は、その短い歴史を終えた。


2011年03月08日(Tue)▲ページの先頭へ
《声ヲタって1人の声優しか応援してない奴多いよな。声優個人板の必死チェッカーみたら俺みたいに色んな声優を応援してる奴がすげー少ないわ》(井上麻里奈にハマリナPart58)。必死チェッカーを用いると、同じIDの同じ日の書き込みを一望できる。丹念に読んでいくと、同じスレにしか書き込んでいない人が多いということが分かる。
2ちゃんねるのスレは、殺伐としているようでいて、実は馴れ合いである。そこには、小集団的雰囲気がある。つまり、イエに擬しうる小集団である。スレとは、イエと同じく所属するものである。いくつものスレに所属できようが、通常は一つに絞られる。mixiは、馴れ合っているようでいて、実は殺伐としており、2ちゃんねるとは逆である。もちろん、私は、mixiより2ちゃんねるが優れてるなどと主張したいわけではない。馴れ合いと殺伐はコインの裏表でしかない。
スレがイエに当たるとすれば、板はムラに、2ちゃんねるはクニに当たる。つまり、2ちゃんねるは、日本社会の構成を模している。クニである2ちゃんねるは、イエであるスレが集まって出来ており、大家である。従って、公である。なぜなら、《「わたくし」に對する「おほやけ」は大家(おほやけ)を意味する》(「國体の本義」)からである。ムラである板には、さほど一体感がないように思われるが、《名塚結婚で声優個別スレ全体が殺気立ってきてるな》(明坂聡美スレその24)というようなことも稀にある。


2011年03月01日(Tue)▲ページの先頭へ
乱歩
イエにおけるウチとソトの分割は、個人にも転写される。個人も、イエと同じく、ソトに向けては、体裁を整えるが、ウチでは、欲望が渦巻いている。私小説は、こうした欲望自然主義のありようを観察したものだが、乱歩は、欲望自然主義に基づく想像を書いた。それが私小説よりも読まれるのは、当然であろう。(乱歩の作品に広く触れます)
乱歩の作中人物は、ソトに向けては、見かけにより騙そうとする。乱歩は、探偵である明智小五郎とともに怪人二十面相を作り出したが、彼らは双子のようなものであり、どちらも変装する。変装とは、見かけにより騙すということである。仮面も好まれる。一人二役も乱歩の好みである。見かけの裏がどうなっているにも、当然のことながら興味を寄せており、作例としては屋根裏の散歩者がある。これは遊歩者とは違う。心理試験は、心理をいかに見かけにより隠すか、ということが試みられている。D坂の殺人事件は、まなざしがいかに恣意的かを語る。見かけを信じてはいけないということであろう。化人幻戯は、犯人が見かけを信じさせようとするものである。カーの皇帝のかぎ煙草入れとは違う。
ソトに向けては、見かけで騙そうとする反面、ウチでは、淫らな欲望が渦巻いており、それは実現される。押絵と旅する男は、自己の想像の中に入ってしまう男の話であり、逆に、パノラマ島綺譚は、自己の想像を外に作り出してしまう男の話である。しかし、作り出されたものも、見かけ倒しである(注)。
乱歩は、大正を象徴している。大正は、見かけに滑り落ちていった。探偵小説は、こうした地点から始まっている。
(注)http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0599.html


   


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