風子思考集成 - 2011/05

fuukoについて




[PR]



2011年05月26日(Thu)▲ページの先頭へ
シチズン
裁判員制度は、市民感覚を裁判に反映することを目的としているとされる(もっとも法文にそのような目的が書かれているわけではない)。どこかこれには違和感がある。おそらく、それは市民という言葉が用いられていることによるものだろう。市民をシチズンシップというエートスを備えているものだと捉えれば、現在の日本にそのようなものが存在しているかどうかは疑わしい。にもかかわらず、市民感覚を反映するという言い回しは、そのようなものが存在することを前提にしている。おそらくは、批判しがたいような言葉を選んで用いているのだろう。しかし、どのような舶来の言葉を用いても、対応するエートスが存在していないので、しっくりと来ることはないだろう。存在しているとすれば村人であり、ムラビトシップでしかない。それぞれの人がどこかの村に属している。その限りで裁判官も普通の人と些かも変わらない。彼らが属しているのは裁判村である。


2011年05月18日(Wed)▲ページの先頭へ
高天原の犯罪
天城一「高天原の犯罪」は、天皇制批判を行っている(内容に触れます)。衆人は「天皇」を拝んでいたが、その最中に殺人が行われる。衆人は「天皇」を畏れ多いので見ていなかったが、隣が動けば分かったはずである。答えは、犯人は「天皇」というものである。「天皇」は監視されておらず、自由に動き得た。衆人は相互監視しており、動くことは出来ないが、「天皇」は相互監視の外にいる。
このように、相互監視には盲点がある。つまり、監視が行き届かないところが出来てしまう。しかし、相互監視している集団そのものが他を害するというふうに捉えなければならない。先の戦争がそのようなものであった。天皇は相互監視の効果に過ぎない。従って、天皇を批判するのであれば、それを生み出すムラ社会を批判すべきであり、天城氏にはそれが出来ている。


2011年05月11日(Wed)▲ページの先頭へ
偏ったもの
家しか見ない日本文化論は、家連合について考えたことを社会に敷衍している。富永健一がいうように、有賀「日本家族制度と小作制度」を農村社会学の研究と考えるのは誤りで、家連合についてしか考えていないのだから、同書は家族社会学の研究である。しかし、村といっても、家連合の集まりに過ぎないので、家連合に見られる相互扶助の裏返しである相互監視を見れば、家連合だけでも日本社会の原型になるだろう。しかし、相互扶助しか見ていないので、偏ったものとなってしまった。


2011年05月04日(Wed)▲ページの先頭へ
ベルク
《閉鎖性と相互浸透性という相反する二重性格は、日本的集団の観察者にとって、最も重要かつ解決困難な問題の一つである》(ベルク「空間の日本文化」)。この問題を考えてみよう。家は閉鎖しており、凝集していることから、メンバーは家と一体のものとして自らを意識するようになる。その外部とは確たる区別がある。しかし、家と外部は相互浸透している。閉鎖しているのならば外部から影響を受けないはずではないか。これを解く鍵になるのは、家が小さく、かつ孤立していることである。それゆえ、外部には従わざるを得ない。そこで、外部からのまなざしを常に意識せざるを得ず、家に外部が浸透してくる。


   


人手です。

新着エントリ
農村 (7/29)
跡形 (7/22)
ムード (7/15)
詠嘆 (7/1)
世帯 (6/24)
濁点 (6/17)
クラブ (6/3)

新着トラックバック/コメント


カレンダ
2011年5月
       

アーカイブ
2007年 (3)
12月 (3)
2008年 (81)
1月 (13)
2月 (12)
3月 (8)
4月 (6)
5月 (4)
6月 (5)
7月 (5)
8月 (6)
9月 (6)
10月 (5)
11月 (5)
12月 (6)
2009年 (45)
1月 (5)
2月 (5)
3月 (4)
4月 (5)
5月 (5)
6月 (5)
7月 (4)
8月 (5)
9月 (4)
12月 (3)
2010年 (50)
1月 (5)
2月 (3)
3月 (4)
4月 (5)
5月 (4)
6月 (4)
7月 (4)
8月 (4)
9月 (5)
10月 (4)
11月 (4)
12月 (4)
2011年 (30)
1月 (5)
2月 (3)
3月 (5)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (4)
7月 (5)

アクセスカウンタ
今日:258
昨日:30
累計:256,007