風子思考集成/一覧

fuukoについて




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2010年12月26日(Sun)▲ページの先頭へ
給食
給食費を払わない親がいることが社会問題化しているようだが、これには疑問がある。
どうして給食費を払わないことを、ここまで問題視するのだろうか。貧しい層が増えていることは、周知の事実である。《文部科学省の調査では「保護者の経済的な問題」が未納理由の43%を占める》(「給食費・保育料、滞納分天引き 学校・自治体は歓迎も…」産経新聞 12月19日)。しかし、どうやら、貧乏でも給食費だけは支払うべきという規範意識があるようである。《滞納に悩まされてきた東京都内の自治体元教育長は「ほとんどの場合、単にほかにカネを使ってしまっているだけ。子供の教育費を優先して支払うという意識がない」と、経済的問題より、親のモラルの問題が大きいと指摘する》(同前)。しかし、ほかにカネを使う内には、習い事の月謝など子供の教育費も含まれているはずである。従って、この教育長が問題視しているのは、子供の教育費を優先して支払うという意識がないことではなく、給食費を優先して支払うという意識がないということであろう。給食費を優先して支払うという意識が、かつてはあったことが窺える。この意識は、先生と生徒は、親と子に擬せられた関係であり、これが絶対的であったことに由来する。年貢の納め時という諺からも分かるように、税金は誤魔化すものと一般に考えられているが、親と子に擬せられた関係に関わるものは別ということであろう。


2010年12月19日(Sun)▲ページの先頭へ
自(おの)ずから
《完全に自分の考えていることが活字に組まれる価値が十分にあると思い込んでいる。そんなものはどう考えても狂気の沙汰だ。ヒトラーとか石原慎太郎とか、そういう類のグロテスクな傲慢さの持ち主だ》(中原昌也「KKKベストセラー」)。
このように中原昌也は、ヒトラーと石原慎太郎を並置する。これには共感するが、ナチズム国家と天皇制国家には、違いもある。ナチズム国家は、アトム化した個人から喝采を得ることで、支配を行ったが、アトム化を促進するべく、相互不信を増幅させることで、相互監視させることに心血を注いだ。しかし、天皇制社会では、アトム化はデフォルトである。ただし、ここでアトム化しているのは、個人ではなく、イエという小集団である。イエは、内で凝集しているので、外に対しては孤立する。ムラではイエ単位で相互監視が行われ、虚数的人物が生まれる。ムラでの決定は、喝采によるものではないが、全員一致である。天皇制国家は、天皇制社会であるムラを組織化されたイエである国家の末端とした(参照、藤田省三「天皇制国家の支配原理」)。ナチズム国家が、自(みずか)らアトム化を押し進めるのに対して、天皇制国家では、イエが自(おの)ずからアトム化するので、その点では何もしなくていい。


2010年12月12日(Sun)▲ページの先頭へ
慎太郎
中原昌也は、こういっている。《やっぱりこの日本国民が誇れるのは慎太郎とマンガですね。慎太郎!マンガ!慎太郎!マンガ!慎太郎!マンガ!慎太郎!マンガ!慎太郎!マンガ!慎太郎!マンガ!それだけが交互にあれば他には何もいらん!と断言しようじゃありませんか》(「お金をあげるからもう書かないで、と言われればよろこんで」)。しかし、慎太郎はマンガを規制することに執心している。日本国民が誇れるものの一方が他方を憎むのは、なぜか。
日本文化論から考えよう。日本では、小集団は凝集し、そこでは人との距離は近いが、逆に、その外では人との距離が遠いものとなり、相互監視が行われる。つまり、小集団の凝集が、その外における相互監視を生み出している。しかし、相互監視は形式的なものを重んじるため、小集団の外では、小集団的な剥き出しの親密さは忌避される。
これを当て嵌めてみよう。慎太郎は、集団における相互監視が生む虚数的人物であり、マンガは、小集団が生む小集団的雰囲気を伝えるものである。従って、マンガが慎太郎を生み出しているといえる。しかし、慎太郎は、形式的なものを重んじ、小集団的な剥き出しの親密さを忌避するため、マンガを憎む。しかし、心配しなくてもよい。マンガが淘汰されれば、慎太郎も消え、マンガは甦ることになるだろう。


2010年12月05日(Sun)▲ページの先頭へ
マイク貴子
日本では、宴会で、一人がずっと喋っていることが多く、残りは聞き役に回るため、会話に弁証法的な発展がない(中根千枝「タテ社会の人間関係」)。カラオケは、これと違い、一人が歌うものの、残りは適当に喋っていることもできる。聞いていてもいいが、聞いていなくてもよい。そうしても、小集団的雰囲気は損なわれない。このような自由度があるために、流行るのであろう。しかし、底に計算的なものが流れていないわけではない。
小集団的雰囲気の底にいかに計算的なものが流れているかを、「かんなぎ」第10話「カラオケ戦士マイク貴子」は、カラオケをマテリアルとして描き切っている。《カラオケってこんなに複雑な事情が渦巻くものなのか》。そこでの沢城みゆきと花澤香菜の攻防は、息詰まるものである。沢城みゆきや花澤香菜の声質を、活かしきっていることは疑いない。山本寛は、この一話でアニメ史に残るであろう。


2010年11月27日(Sat)▲ページの先頭へ
禁書
《禁書は深いんじゃなくて、浅い器に山盛り》(伊藤かな恵part24-156)なのであるが、上条が山盛りにしているのは、中二病の教説である。これが浅いのは言うまでもない。しかし、それでも爆発的に売れているようであり、中二病の教説に需要があることは認めざるを得ない。そうでなければ、坂本真綾が売れることなどないだろう。
坂本真綾は、永遠の14歳である。永遠の17歳という人は多いが、永遠の14歳といえるのは彼女だけである。永遠の17歳と同じく、永遠の14歳も、一つの世界観といえる。それは、ひと言でいえば、セカイ系である。このような印象は、自作の歌詞によるものと思われる。これに、透明感のある声が加わる。歌う声と言葉が、それぞれピュアということになる。菅野に8割くらい依存している(いた)などといわれるが、菅野も真綾ほどうまくプロデュースできた例はないことから、誤りであることが分かる。


2010年11月20日(Sat)▲ページの先頭へ
夕焼け
吉野弘「夕焼け」は、かつて電車がどのような空間であったのかを伝えている。満員電車で席を譲ったことから、少女がいやな目に会うという詩である。概説すれば、老人に席を譲ったところ、次の駅でその老人が降りので、空いた席にまた座ったところ、また老人が寄ってきたため、また譲ったところ、その老人も次の駅で降りたので、また空いた席に座ったところ、また老人が寄ってきたが、もう今度は譲らなかった、というものであり、コントを思わせる。
かつて電車という空間では、相互監視が行われていた。この詩の電車では、いちど席を譲ったのだから、いまいちど譲るようにというまなざしが、少女に向けられる。老人に席を譲るべきであるという規範は、全ての人に向けられるはずだが、相互監視が形成する合意はその都度のものであり、ここで譲るべきは彼女なのである。なぜなら、自分たちは譲りたくないということに加えて、彼女は、いちど譲って、周りのまなざしからその「やさしさ」を賞賛されたわけで、このまなざしに報いるため、賞賛されたことと反する行いをしてはならないからである。このような状況下で、空いた席にまた座るということは、明らかな計算ミスである。嘲笑は免れないであろう(注)。こうしてこの「やさしい」少女は傷ついてしまい、もはや席を譲らない。彼女にも規範といったものはない。
しかし、今や、電車において相互監視が行われているとは、言い難い。人々のまなざしは、小さな画面にしか向けられず、他の人に向けられることはない。
(注)中島義道「うるさい日本の私」を参考にした。同書は、日本における初めての闘う哲学書であろう。


2010年11月13日(Sat)▲ページの先頭へ
相互監視
区切られた集団では、法の代わりに相互監視が存する。そして、相互監視が安定するために、その想像上の中心が形成される。山本七平はこういっている。《状況倫理という日常性は、否応なくここに行きつき、ここに到達して一つの安定を得る。「一人の絶対者、他はすべて平等」の原則》(「「水=通常性」の研究」)。状況倫理とは、法ではなく、その都度の状況により、ものごとの正否が決まることをいう。その都度の状況に基づき、全員で判断するが、その際に相互監視に由来する力学が働くことになる。しかし、その都度というのでは安定しないので、想像上の中心が形成される。
相互監視が行われ得る範囲は、限られている。そこで、《この世界は結局、いくつかの集団に分裂し、その集団の間には、相互の信頼関係は成り立ちえなくなる。一教師・オール3生徒は、他のクラスと遮断してはじめて成り立つ》(同前)。


2010年11月06日(Sat)▲ページの先頭へ
未開社会
日本社会には未開社会の感覚が残っているといわれる。《日本人は、復活や輪廻を信じてもいないし、現世中心主義に徹するほど合理的でもないので、何となく死後の世界があるような気がしている。未開社会にはよくあるタイプの感覚ですが、文明国にしては素朴すぎます》(橋爪大三郎「世界がわかる宗教社会学入門」)。複雑社会である日本社会に、未開社会の感覚が見られるのはおかしいとも思える。しかし、日本社会は、集団が未だ開かれていないという意味で、未だ、未開なのである。つまり、人は、一つの集団から出ず、終生そこで過ごす。未開社会における自然との合一といった感覚は、豊かな自然が齎しているというわけではない。集団が開かれていないことが、人と人のあいだを近くし、それが人と自然のあいだを近くしているのである。


2010年10月30日(Sat)▲ページの先頭へ
一巡
まんがやアニメは、小集団的雰囲気に包まれている。押井守は、ビューティフルドリーマーで、その不健全さを指摘した。しかし、その後、現実における小集団的雰囲気が脆弱化し、その反映としてエヴァが現れた。前島賢「セカイ系とは何か」によると、エヴァは、ホワイトベース(共同体)の不在と使徒という訳の分からない敵により、拠りどころを失った自我が露出してゆく物語である。ホワイトベースは、まさに小集団であるが、日本社会においては、それがないと自我を守るものがない。小集団の外は、他者しかいない現実である。使徒は、まんがやアニメによる初めての他者の形象化であると、大塚英志が指摘しているが(「だいたいで、いいじゃない。」)、日本社会において、他者は、小集団の綻びというステップを通じて初めて現れうる。ホワイトベースの不在が使徒という他者を生んだといってよい。人類補完計画は、使徒という他者を消去した上で、小集団的雰囲気に戻ることを企図したものである。しかし、シンジは、アスカという他者を選択することで、これを拒絶する。セカイ系には、最初からアスカのような他者はいない。従って、セカイ系をアスカに拒絶されないエヴァなどと捉えることは、正しくない。
けいおんやサマーウォーズは、一巡して小集団に戻ったものである。けいおんにおいては、小集団が集団との関わりなしに存在しており、それがユートピアめくのは当然である。小集団のいいところだけを取ってきているからだ。とはいえ、日本社会における集団の構成と齟齬はない(集団を描いていないだけ)。しかし、サマーウォーズにおける大家族の捉え方には、問題がある。大家族とネットワークを重ねているが、日本社会の集団は閉じているのであり、開かれたネットワークとは異なる。ネットワークは、閉じた集団を侵食するものである。ウォーゲームにおける子どものつながりであれば、ネットワークと重ねうるだろうが。


2010年10月23日(Sat)▲ページの先頭へ
無頼派
太宰治や坂口安吾といった無頼派は、敗戦直後の時期に、世間を批判した。これは、私小説が、世間の気を惹こうとして、破廉恥なことを告白するのとは、全く異なる。世間がここまで理論的に批判されたのは、初めてである。
太宰治は、「人間失格」で、「世間というのは、君じゃないか。」とする。世間とは、相互監視システムであり、太宰の把握は、正しいものではないが、相互性を捉えてはいる。なお、この箇所について、加藤典洋は、「他者とは何か、それは、正しさに着地しないもの、名指されないものではないか、そう、太宰はいっているのだ」(「敗戦後論」)といっているが、開いた口が塞がらない。
世間は、相互監視システムだから、集団転向することはありうる。赤信号でもみんなで渡れば、相互監視の中では、誰からも咎められることはないからである。太宰が「時代は少しも変らないと思う。一種の、あほらしい感じ」(「苦悩の年鑑」)というのは、正しい。相互監視そのものは何ら変わっていない。
坂口安吾は、「堕落論」で、堕落することで救われると説いたが、これも、相互監視を批判するものである。相互監視の中では、常に周りのまなざしを気にしなければならず、個人として生きるということはない。堕落は、個人化の契機なのである。
《安吾には、「超自我」が欠けているということである。しかし、他方で、彼は自己立法(自律)的であり、それに関しては驚くほど峻厳かつ勤勉である》(柄谷行人「坂口安吾とフロイト」)。相互監視によってのみ行動を規制しているムラビトが、相互監視を離れれば、無法者になるおそれがある。そうならないためには、自律的であること、つまり自我を強く持つより他ないのである。
無頼派は、世間の外には出ず、その内に止まって、世間を批判した。変革を企てたのであろう。「徒然草」のように世間の外に出て、世間を批判する書物は、決して珍しくない。それらを世間の人は、共感しながら読んでいた。しかし、それでは何も変わらない。


2010年10月15日(Fri)▲ページの先頭へ
敗戦後論
日本人の戦争観は、自分たちは被害者である、というところに収斂した。自分たちは国に騙されていた。加害者は国である。そのような国は信じられないから、軍隊を持たせるわけにはいかない。自分の子が徴兵されるのは真っ平である。このような思考の原因は、その国家観にあると思われる。
近代に入っても、依然として、ムラビトの世界は、ムラで完結していた。江戸時代までのように、国なしでも暮らしていけたのである。従って、国は、自分たちの暮らしの外部にある存在である。うまくいってるあいだは、彼らに任せたうえで適当に従い、その果実を乞うが、うまくいかなくなれば、切り離し、罵倒する。
加藤典洋「敗戦後論」は、戦後日本が「戦争に負けたこと」を受け止めていないため、戦後処理が出来ない、とする。しかし、国民は、国が「戦争に負けたこと」を受け止めたうえで、国を切り離して、国の行ったことはあずかり知らぬとした。勝てば官軍、負ければ賊軍というわけだ。政治的責任など思いもよらない。
従って、国民は自分たちが悪いとは思っておらず、切り離した国が謝ろうが謝るまいが、どうでもよい。国としては謝らざるを得ないであろうが。しかし、僅かにいる心情的に国に就いている人にとっては、異なる。彼らにとって、国家は無垢なものでなければならない。自らの空洞を埋めるものとして国家が現れているからである。こうして、国と心情的に国に就いている人に、分裂が現れることになる。


2010年10月07日(Thu)▲ページの先頭へ
キャラ化
《小集団の理想的なサイズは五〜七人である》(中根千枝「タテ社会の力学」)。これより大きくても小さくても、小集団的雰囲気は生まれにくい。従って、家族の人数が減ったということは、日本社会にとって大きな変化である。なぜなら、それは家族から小集団的雰囲気が消えたということを意味するからである。
従って、子どもたちは、家庭で小集団的雰囲気を味わわないまま、子どもたちの集団に入っていくことになる。これがいわゆるキャラ化が生じている理由であろう。家庭で小集団的雰囲気を味わったことがないため、家庭の外でもかつてのように自然にそれが生まれない。ゆえに、キャラ化することで、意識して小集団的雰囲気を生み出そうとしているのである。家族から小集団的雰囲気が消えても、それがこのように再生産されているということは、日本社会における小集団的なものへの志向の強さを物語っているともいえよう。
ここで、小集団的雰囲気と甘えの関係について述べる。《甘えとは小集団的雰囲気を前提にした人間関係の行動様式であり、それは個人と個人の対応関係というよりは、自己中心的な行動様式で》ある(雰囲気に傍点、「タテ社会の力学」)。甘えは、幼児期の母子関係を原型とする二者関係であるが、小集団は、それを持続させる装置であろう。


2010年09月30日(Thu)▲ページの先頭へ
郷党社会
日本文化論が議論の中心を占めていた頃があった。敗戦後のことである。天皇制ファシズムの原因が、日本文化の中に求められた。その頂点が、丸山眞男である。彼は軍隊を観察し、暴力が上から下に伝わっていくが、上は下に突き上げられ何も決めることが出来ない、横のつながりがないといった病理をそこに見出した。中根千枝「タテ社会の人間関係」(1967年)が描き出すところのタテ社会である。そこには主体性がない。しかし、これをどう克服できるかは示せなかった(「歴史意識の「古層」」の後、実質的に沈黙する)。思うに、精神構造を見るだけでは、その由来は分からない。それを生み出す社会構造を見なければならない。しかし、丸山は、軍隊を観察しただけである。丸山に代わって社会構造を見たのは、弟子たちである。
民俗学から出発した神島二郎は、都市は、郷党社会に似たものとなっており、「第二のムラ」と言いうるものであるとする。しかし、なぜそのような転写が起こるのかについて、必ずしも説得力のある説明を与えていない。
もっとも整っているのは藤田省三「天皇制国家の支配原理」であろう。絶対国家を経て、国民一人ひとりを水平化しなければ近代国家にはならないが、そのためには、中間団体を解体して、国家が直接に国民とつながらなければならない。しかし、明治国家は中間団体である郷党社会を解体せず、郷党社会を末端として組み込んだタテ社会(そういう言葉は用いていないが)を築きあげる。昭和に入ると、郷党社会が軋みだし、そこからのエネルギーを上にあるタテ社会も制御できなくなり、天皇制ファシズムに至る。藤田はさらに、「維新の精神」で、維新の原動力は、タテ社会の軋みから(タテ社会においてはあってはならない)横のつながり(「横議・横行・横結」)が出来たことにあるとする。しかし、すぐに別のタテ社会(「天皇制国家」)が生まれ、横のつながりはそれに回収されてしまう。これは戦後にも起きたことだが、それがなぜかは、藤田の行論からは必ずしも分からない。


2010年09月23日(Thu)▲ページの先頭へ
居心地
人は集団に囲い込まれた上、その中の区切られた小集団において相互監視している。しかし、小集団は相互監視のためだけの場所ではない。相互監視だけだと居心地の悪い場所であろうが、逆に、小集団の居心地は良い。なぜなら、小集団は親密な雰囲気に包まれているからである。個人は溶解し、小集団は一体化している。相互監視は元々は集団のものであり、それが小集団に侵入してきていると考えるべきであろう。
このような小集団の原型はイエである。川島武宜「日本社会の家族的構成」(1946年)は、人はイエしか知らないので、イエの外でもイエのような集団しか組織されないと指摘している。中根千枝「タテ社会の力学」(1978年)は、このような観点に立ち返ったといえる。しかし、この二冊は、集団における相互監視を見落としている。逆に、杉本良夫「日本人をやめる方法」(1990年)は、相互監視を指摘しているが、小集団の親密な雰囲気を見落としている。しかし、この二つは合わせて考えなければならない。


2010年09月16日(Thu)▲ページの先頭へ
親の責任
柄谷行人「倫理21」は、第1章で「親の責任を問う日本の特殊性」を問うている。親の責任を問うことは、日本社会の構成の特殊性に由来しており、日本社会の核心を突いている。
日本社会では、人は一つの集団にしか帰属できない。換言すると、一つの集団に囲い込まれる。しかし、人はダイレクトにではなく、集団の中にある小集団を通じて、集団に帰属する。小集団は、それぞれ独立している(参照、中根千枝「タテ社会の力学」)。そして、小集団の一員に何らかの逸脱があると、小集団の他の成員も集団から連帯責任を問われることになる(村八分を想起されたい)。人は一つの集団にしか所属していないので、そこから排除されると孤立してしまう。逸脱に対する排除は、集団の成員の楽しみでもある。そうならないために、小集団では、相互監視が行われる。
ポイントは、人は集団に囲い込まれた上、その中の区切られた小集団において相互監視していることである。親の責任は、このような社会構造から必然的に出てくる。逆に、このような社会構造でなければ、親の責任など問う実益はない。


2010年09月09日(Thu)▲ページの先頭へ
子供は育つ
ルース・ベネディクト「菊と刀」の「子供は育つ」の章は、子育てを説明することで、日本社会における人格形成システムを、余すところなく叙述している。小さいころは、子供を甘やかすことで、自己中心的な自我を残したまま、徐々にイエの外における相互監視のまなざしを沁みこませていく。こうして形成された人格は、自己中心的であるため、逆に、他者のまなざしが気になる。常に「まなざしの地獄」(見田宗介)とでもいえる状況に身を置くことになる。こうして、相互監視がその力を発揮する。なぜ、甘やかすのか。自我が成熟し、自立した個人が生まれてしまうと、ここまで相互監視が機能しなくなるからであろう。そうすると、別の社会になってしまう。甘やかすというのも、一つの戦略なのである。
子育ては、子供の人格形成であるが、大人にも同じ人格形成の力が働いている。子育ては、社会の人格形成システムの原型である。ベンサム=フーコーのパノプティコンが説得的なのは、オイディプス三角形と矛盾しないからであろう。


2010年09月01日(Wed)▲ページの先頭へ
日本改造計画
小沢一郎「日本改造計画」(1993年)を読んで、私は、丸山眞男を思い出した。小沢によると、《改革の根本にある、究極の目標は、個人の自立である》。個人の自立は、敗戦後、丸山が唱えていたことである。しかし、丸山は、個人の自立に至る道筋を示すことはできなかった。これは、どのような社会構造が個人の自立を妨げているかを示せなかったことに起因する。もっとも、思想史にそれを求めることはできないだろうが。結局、個人の自立などなくとも経済が成長してきたため、丸山は捨てられてしまう。そして、吉本隆明がヘゲモニーを握ることになる。吉本も自立を掲げてはいるが、似て非なるものである。
この点で、小沢は、個人の自立を妨げる社会構造の指摘を行っている。《個人は、集団への自己埋没の代償として、生活と安全を集団から保証されてきたといえる》。これは、中根千枝「タテ社会の人間関係」(1967年)あたりに書かれていることではあるが、正しい。しかし、小沢がこれを書いたころから、集団が崩れてゆく。にもかかわらず、自立した個人が現れた形跡はない。個人の自立を妨げているものは消えても、個人の自立を促すものはないということなのかもしれない。


2010年08月25日(Wed)▲ページの先頭へ
八つ墓村
横溝正史「本陣殺人事件」の犯人はイエの因習、「獄門島」の犯人はムラの因習に囚われている。しかし、「八つ墓村」の犯人は、逆にムラの因習を利用する。《田舎の人は口先だけはうるさいけれど、その実、みんな意気地がないから何もできゃあしないのよ》。犯人は、「八つ墓村」の生まれだが、都会から帰ってきたこともあり、ムラを対象化できたのであろう。探偵である金田一や作者である横溝も、都会からムラに来ている。ムラ社会を対象化する著作は、戦前にはなく、敗戦後すぐに、横溝の諸作やきだみのる「気違い部落周游紀行」が書かれる。しかし、これらは引き継がれず、途絶えてしまう(注)。
総じて、探偵小説は、日本社会を純文学よりも対象化できており、横溝正史はムラ社会を、松本清張は会社社会を、それぞれ対象化したといえる。人間が書けていないなどと批判されるが、そもそも日本社会には人間などいない。
(注)《きだによる日本社会のとらえ方は、その後どういうものか承継されていない》(青木保「「日本文化論」の変容)。


2010年08月18日(Wed)▲ページの先頭へ
ムラ社会
ネットがあると、現実で言っていることと、ネットで言っていることが乖離しうる。ここから2ちゃんねるが生まれるのであろうが、より懸念されるのは、これにより、他人が信じられなくなることであると、宮台真司は言っている(「日本の難点」)。対面しているときは親しくしているのに、ネットで悪口を書かれていたりすると、人がおよそ信じられなくなる。しかしながら、ネットがないころでも、対面しているときに言っていることと、その人がいない場所で言っていることは、往々にして異なっていた。むしろ、ムラ社会ではそれが常態であった。
例えば、mixiはムラ社会そのものといえる(注)。ネット以前のありようが、ネットのありようを規定している。
(注)mixiはムラ社会?
http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20050824


2010年08月11日(Wed)▲ページの先頭へ
分からない
平野綾が8月4日のグータンヌーボに出て、年上との恋愛話を語ったことから、ネット上でいわゆる祭りが起こりました。しかし、平野の言ったことは予想の斜め上を行っていたとはいえ、ネットでの反応は既視感しか感じられないものでした。従って、特にコメントすることはないのかもしれませんが、あえて言うとすれば、平野サイドの思惑が分からないということでしょうか。
おそらく、声優の世界の外でも活動したいということなのでしょう。しかし、だとしても、なぜ恋愛話などしなければならないのか。声優の世界の外に出るのだから、アイドルから脱皮しなければならないと考え、恋愛話をしたのかもしれませんが、声優の世界の外にもアイドルはいるはずであり、異なる位相のアイドルということで売れば良かったのではないでしょうか。なぜ一足飛びに、アイドルの域を超えてしまわなければならないのか。そもそも、アイドル的でない声優の振る舞いというのは、ありうるのか。もっとも、声優がアイドルと混じったとき、アイドルとどう差異化するかは、分からない。この辺りがすっきりしないので、こういうことになったのかもしれない。


2010年08月04日(Wed)▲ページの先頭へ
メタ文体
沢城みゆきは、いわゆる85年カルテットの一人で、14歳でぷちこ役でデビューして以来、第一線です。ぷちこから、少年役(ぴたてんなど)まで、幅広い。声量は乏しいものの、恐ろしく器用です。ここまで器用だと、中の人に統一性がないようにも思えますが、メタ文体(注)めいたものはあるのであり、また、フェティッシズムを喚起するものは、どの声にもある。その都度、文体を使い分けるが、その使い分けの中枢は存在しているというような状態は、コミュニケーションにおけるキャラの使い分けなどにも通じているのでしょう。
しかし、沢城は、かんなぎあたりから、地声で演技するようになる。これは、地声でないと演技ができないことから、意図的にそうしているとどこかで言っていました。しかし、メタ文体的なところから離脱したというわけでもないと思われます。
沢城の声は、何とか病みたいなのは引き起こさないようですが、そういうものの代表である釘宮に近い。このようなフェティシズムの喚起は、名塚のような一つしか声がないという意味で沢城と正反対の人の声にも見られるのであり、あるいは、それだけが求められているということなのかもしれない。
(注)斎藤環による、阿部和重の文体についての言及より。


2010年07月28日(Wed)▲ページの先頭へ
中間集団
内藤朝雄「いじめの構造」によると、いじめの大きな原因は、子供をクラス(という中間集団)に閉じ込めておいて、仲良くすることを無理強いすることにある。そこでは、いずれかの小集団に属さざるを得ず、閉ざされた小集団内では往々にしていじめが起こる。このようにクラスという中間集団が個人を圧殺しており、こうした現象を内藤氏は中間集団全体主義と命名している。
こうしたクラスという中間集団と小集団の関係は、ムラとイエの関係を転写したものであろう。かつて、ムラは閉じていて、その中で、イエも孤立していた。しかし、そこでは「いじめ」は、イエではなく、ムラの中で行われる。イエでは、むしろ、人は凝集しており、理想的な小集団像を提供している。とはいえ、どこの国でも、家族はこうというわけでもない。普通は、家は、個室と共通の場に別れているものであり、ここから個人が生まれるが、日本では、これが別れず、始終家族が一緒におり、個人が生まれない(中根千枝「適応の条件」)。


2010年07月20日(Tue)▲ページの先頭へ
小集団
けいおんは、オタクのみならず、広い層に支持されています。CUTやan・anといった雑誌で取り上げられており、社会現象になりつつあるのかもしれません。しかし、エヴァのようにいろいろな仕掛けがあるわけではありません。逆に、何の仕掛けもない。例えば、けいおんには、いかなる意味でもメタな仕掛けはありません。らきすたは、メタアニメの不可能性を示したと黒瀬氏がいっていましたが、その帰結なのでしょう。
では、他の萌えアニメとどこが違うのでしょうか。閉じた少女の小集団を、単独で、かつ女性の目線で取り出したことでしょう。小集団の外は画かれていません。男がいないのはもちろんですが、大人もおらず、先生は、先生としては存在していません。これだけであれば、苺ましまろなどと変わりませんが、苺ましまろは(男性作者による)あくまで脳内の小集団です。しかし、けいおんの小集団は女子高生としてリアルです。そこ(だけ)が新しい。監督が若い女性だというのも大きいのかもしれません。
けいおんがどうしょもないアニメであることは疑いありませんが、むしろ、アニメのどうしょもなさが純化しているともいえます。中原昌也は「アニメという時点でダメ」「マンガってだけでダメ」といってますが、けいおんほど、そのことを実感させる作品はありません。(人と人の)不当な近さが、そこにはあります。


2010年07月13日(Tue)▲ページの先頭へ
生クリーム
愛生(あいなま)に、私のようなかな恵ちゃんの信者が、節操もなく飛びついていいものかどうか、迷うところではある。
かな恵ちゃんと愛生の違いは、けいおんの有無に尽きている。しかし、そのような役を得たことは、ラッキーだけによるものではない。けいおんのようなどうしょもない作品のヒットは、人がいかに脱力的なものを求めているかを示しているが、愛生は、それに応えている。
脱力感に加え、愛生のキャラを特徴付けているものは、多幸感だろう。《あいなまは甘すぎる生クリームのようで大量に摂取すると胃がもたれる》(東浩紀377-662)。
脱力感と多幸感という、白痴を思わせるキャラであるが、その基盤は何なのか。声質であろう。


2010年07月06日(Tue)▲ページの先頭へ
NPC
Angel Beats!は、麻枝准が初めて手がけたアニメであり、けいおん!!と並ぶ四月の注目株でした。制作スタッフがビッグマウスを叩いていたことと、天使がかわいかったということくらいしか記憶に残らないでしょう。しかし、4万枚くらい売れているようです。…。
死後の世界であることから、身体は死なない。身体に意味があることは、生前の臓器移植のエピソードから明らかですが(あまり普及していないはずの臓器提供意思表示カードを次々と取り出すシーンは、笑ってしまいますが、マジです)、死後の世界には、記号しかないといえるでしょう。NPCが出てきたりしており、パソコンの中のような世界観なのでしょう。影について、ゆりは、ゲームセンターのゲームのように、長く居過ぎると勝てない敵が現れ、強制排除されるようになっているのかもしれないといっていましたし。データをコンピュータに送って、その中で〈コピー〉として生きていこうという発想は、SFにはありました(イーガン「順列都市」)。〈コピー〉はデータなので、分裂もできます。天使も分裂していましたが。ただ、この場合、記号しかないので、不死です。そこで、不死とはどういうことなのかというような思弁が、そこでは行われます。
しかし、AB!は、卒業していく世界であり、成仏することがゴールです。どうやら、最後のシーンは、輪廻を示唆しているようです。そこで、人生を肯定した上で、再スタートしようというメッセージが発せられている、と解釈している人がいました。


2010年06月28日(Mon)▲ページの先頭へ
人形
井上麻里奈はアイドルなのか。愚かな問いだ。世の人の9割9分が麻里奈を知らないとしても、動物化した人民にとっては、輝かしいものとして響いているであろうこの名は、アイドルというにふさわしい。一行で答えが出た。しかし、動物化した人民のほうからは、こういう声も聞こえてくる。一緒にラジオをやっている伊藤かな恵ちゃんは、小学生のようなルックス、喋り方、その他妄想を抱かせるあらゆる特徴を備えているのに、麻里奈は、きれいなだけの人形ではないか。下らない。妄想は人それぞれだ。それに、アイドルとはもとより人形ではなかったのか。かな恵ちゃんがかわいいとかいっているロリコン崩れなど、放っておけばよろしい。
麻里奈といえば、グレンラガンのヨーコだろう。漫画家の砂などといったお歴々を、心の深奥まで震わせるそのルックスは、忘れられない。忘れられるはずもない。むろん、麻里奈にとってもそれは同じだ。米国の動画投稿サイトにアップロードされている動画(注1)では、涙を浮かべつつ、ヨーコへの思い入れを語っているのである。声優の泣いているところなど、そうそう見れるものではない。少なくとも、筆者は見たことがない。
グレンラガンについて語ることは、た易い。これ見よがしのメタアニメであり、巷のブログ論壇では、メタレベルを縷々述べて、喜々としている姿が散見される。愚かしい限りだ。そんなことをいって何になるというのだろう。むろん、そのように反問できるくらいの知性があれば、下らないことは書かずに、黙ってテレビを見るだろう。そうあるべきだ。それこそ、人民の正しい姿だ。テレビとはそういうものだ。いや、違う。今や、違うのだ。言い直そう。ネットの傘下にあるテレビはそういうものではない。今や、人民はメディアなのだから。だから、グレンラガンについて、下らないことを喜々として書き散らす人民を、私たちは、止めることもできなければ、貶すこともできない。できようはずもない。そんなことができるのならば、ブログ論壇と同じく、ブログで行われる声優のファンサビスをどう受け止めればいいというのか。地震が怖かったと語るだけの麻里奈の記事(注2)に群がるコメントに、どう顔向けするというのか。麻里奈のブログは、淡白なものだ。私生活が垣間見えることはない。しかし、よい。それでこそよい。何か書くことに意味があるのだ。人民も、声優も。距離を保つことが、その条件となろう。
話がずいぶん逸れたようだ。しかし、迂回は避けられない。迂回を恐れるのであれば、声優についてなど、語らなければよろしい。声優について語ることなど、実は何ひとつないのだから。それでも声優について語るのは、語りうるトピックがそれしかないという事情によるものだ。一定の濃さで語りうるトピックは、限られている。私たちのような一人語りは、テレビで一五秒くらい適当なコメントを付けるのとは、自ずから違う。そして、現在、私たちを含め人が語るのは、語るくらいしかすることがないからだ。あまりに身も蓋もない真実だろうか。そうだ。その通りだ。真実とはそういうものだ。続ける。
麻里奈はアイドルか。私たちは、冒頭の一行で答えを出した。然り、と。今や、私たちは問いを転形させることができる。では、麻里奈はどのようなアイドルか、と。ここまでの理路からして、分かり切ったことだ。もう筆を擱くときなのだろう。しかし、ここで一人のアイドルと出会うことも、一興ではあろう。しょこたんだ。しょこたんも、麻里奈も、お人形にあこがれて、お人形になった。オタクが昂じて、オタクのアイドルになった。似通っている。
(注1)http://www.youtube.com/watch?v=OjD3QkCtM8A
(注2)http://yaplog.jp/marinavi/archive/933


2010年06月21日(Mon)▲ページの先頭へ
セーラーふく
セーラー服を脱がさないで、という歌がありましたが、その理由は、セーラー服を脱ぐとおばさんになってしまうからであると、大塚英志はいっていました(「少女民俗学」)。これは、セーラー服という記号性しか彼女たちにはないという認識からでしょう。しかしながら、らきすたのOPであるもってけ!セーラーふくでは、セーラーふくがもっていかれても、自己が失われることはないということが歌われています。これは、どういうことなのでしょうか。
おそらくは、手塚の死後、記号性と身体性の関係が変わったのでしょう。どう変わったかは、よく分かりませんが、「オートマティズムが機能する」(佐藤心)ようになったということだけはいえるでしょう。らきすたに続くけいおんでは、少女たちは、実にオートマティックに動いています。ゼロ年代のアニメが見た夢といっていいでしょう。あずまんが大王のアニメ化はこけてましたが、あれは、4コマとして面白すぎました。4コマの原作はカスであればあるほどいいというのが、らきすたやらけいおんの教訓でしょう。たぶん、そのほうが、アニメのキャラとしては動いてくれる。


2010年06月14日(Mon)▲ページの先頭へ
ホログラム
《使徒は徹底して記号であり、手塚に反して、身体性を一切残さないことで、他者を導いた》(注)。アニメやまんがに初めて他者が現れたと、大塚も認めてました(「だいたいで、いいじゃない。」)。これは、手塚システムからは他者は現れないと認めてるようなもので、キャラを抑圧とかいうよりも、深刻なものではないかと思いますが。
使徒はそうだとして、綾波はどうなのでしょうか。記号性はいくらでも複製できることは、身体性による唯一性により覆われていたものの、クローンという仕掛けにより、その覆いが取られています。これも、手塚システムの内在的な批判といえるでしょう。もっとも、クローンとはいえ一つ一つの身体には唯一性があり、そのことから(?)、「私はあなたじゃない」という台詞に至りますが。
岩倉玲音は、綾波のようなキャラですが、ネットで遍在する記号性が、リアルワールドにおいて、そのホログラムとして身体性を得ているということでした。
(注)http://fuuko.noblog.net/blog/11015364.html


2010年06月07日(Mon)▲ページの先頭へ
絵本
ゆかりんに発表してもらいましたが、こちらで引き取ります。何度か書き直したというか言い直したものの、論理の飛躍が少なくないので、少しだけ注釈を付けておきたい。
《アイドルも、声優も、記号的身体でしょう》(注)。ここは、理由なく断定していると言わざるを得ません。ゆかりんは、どうやらテヅカイズデッドに依拠しているようですが、うろ覚えのようです。
「アイドルとは《シミュラークル》が生身の実体を持った不幸な存在」(大塚英志「システムと儀礼」)ですが、シミュラークルというのは、記号性と言い換えていいでしょう。例えば、山口百恵は、記号の集合である。固有名に必然性はない。しかし、存在するためには、身体が必要である。そして、その身体性により固有性を得ている。しかし、その身体性により記号の集合であることを覆い隠してもいる。
逆に、記号性が身体性を抑圧している面もあるように思われる。大塚がアイドルを「不幸な存在」であると感じるのは、ここからだろう。
つまり、アイドルとは、身体性と記号性が相互に抑圧しあっている「不幸な存在」といえる。しかし、この不幸さこそが、アイドルを動かす物語である。かわいそうとかわいいが、ここで重なる。
記号性と身体性を空間的に分ければ、true tearsになるのかもしれない。乃絵が記号性、比呂美が身体性に対応する。乃絵は、記号性しかないので、飛ぶことはできても、泣くことはできない。逆に比呂美は、身体性しかないので、泣くことはできても、飛ぶことはできない。比呂美と関わるだけでは、絵本は書けないだろう。
(注)http://fuuko.noblog.net/blog/11015364.html


2010年05月31日(Mon)▲ページの先頭へ
ミッキー
うんとねー、えっとねー、じゃ、これ。今まで好きになった男の人は5人さん。
ゆかりん、こんばんわ。香菜ちゃんは、ビッチなんかじゃないなんて言わなくていいって、言ってましたね。これは、どうしてでしょう?ちょっと分かりにくかったです。それにしても、ビッチは、不思議な使われ方をしている言葉だと思います。2ちゃんねるの声優板などを覗いてみると、ビッチという言葉が頻出します。中学時代からの男友達数人と夜明けの海辺でしっぽりしただけで、ビッチなのだそうです。ビッチという言葉をこのように広く使うのなら、世の女はみなビッチになってしまうのではないでしょうか。より不思議なのは、例えば、キスプリクラが出回るとかということがあっても、これは声優板の人からすれば、ビッチということになるはずですが、全くといっていいほど、人気が落ちないことです。どうしてでしょう?
えー、少し分かりにくかったかもしれない。香菜ちゃんが、ビッチなんかじゃないと言わなくていいのは、声優としての香菜ちゃんはキャラだから。本人がビッチかどうかというのは、キャラには関わりないの。キャラというのがキーポイントね。
キャラ/キャラクターというのは、ゼロ年代が生み出した概念のうちで、もっとも輝かしいものの一つね。ゲーム的リアリズムの誕生によると、キャラは記号性、キャラクターは身体性のことね(第1章15)。キャラクターは、記号性も兼ね備えているから、記号的身体といっていいわ。アトムの命題というのは、記号的身体が血を流すというのはなぜかというもの。身体が血を流すのは、当然。でも、記号的身体となると話は別になってくるわ。記号が血を流すのは、どういうことなのか。記号性というだけなら、ディズニーのキャラも記号の集合ね。でも、ミッキーが血を流してるところなんて、想像できないわ。だいたい、血を流すためには血管がなければならないけど、ミッキーのどこにそんなものがあるというの?つまり、ミッキーには身体性がない。
記号的身体なのになぜ血を流すのかということと同じように、記号的身体なのになぜかわいいのかということも、問うべきなのかもしれない。記号に過ぎないものが、なぜかわいいのか。ミッキーは、かわいくはないとも言える。三つの円に還元できるキャラのどこがかわいいのか。かわいいという言葉は、英語にはないらしいし、ミッキーを形容するのにも、かわいいという言葉はいらないと思うわ。血を流すのと同じだけど、かわいいというのも、身体性によるものでしょうね。使徒は徹底して記号であり、手塚に反して、身体性を一切残さないことで、他者を導いたといえるわ。
前置き(?)が長くなったけど、アイドルも、声優も、記号的身体でしょう。で、アイドルにとっても、声優にとっても、記号から離れた身体が露出するというのは、スキャンダルなのよ。真っ先に思いつくのは、岡田有希子。《「脱アイドル」とか言って、乳首や陰毛を露出するタレントはいても、自らの脳味噌をカラーグラビアで公開した歌手はいない。それはピンク色に光り、何よりもセクシーだった》(松本亀吉「歌姫2001」)。アイドルであるためには、どこまでも記号的身体に止まり続けなければならない。ビッチというのは、身体の別名ね。そもそも、生身の身体なんて、アイドルにはいらない。岡田有希子は、生身の身体をなくしてもアイドルだし、初音ミクなんて、もともと生身の身体を保有していない。
ビッチと分かっても、つまり身体性が露出しても人気が落ちないのは、なぜかしらね。声優板まで来てるような猛者は、記号性しか見ないと割り切ってるからかしら。それなら、ビッチなんて言わなくてもいいと思うけど、そうもいかないんでしょう。記号的身体だから、身体が惹きつけるものもあるわけ。


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