風子思考集成/一覧

fuukoについて




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2010年05月22日(Sat)▲ページの先頭へ
天使なんかじゃない
うんとねー、えっとねー、じゃ、これ。うさりんネーム天使ちゃんをいじめるなさん。
ゆかりん、こんばんわ。僕はもちろん、ゆかりんが一番好きですが、花澤香菜ちゃんのかわいさに打たれてしまいました。ほんと、かわいすぎです。ゆかりんが小悪魔だとすると、香菜ちゃんは天使だと思います。天使といっていいのは、ほっちゃんと香菜ちゃんだけではないでしょうか。ゆかりんは、そんな香菜ちゃんについて、どう思いますか?
香菜ちゃんねー。近いのは名塚かな。子役上がりで、声質を見込まれて抜擢され、最初は棒読みだけど、そのうち演技が伴うようになる。天使ちゃんなんて、彼女の声を聞かされた後では、他の人の声が考えられないくらい。
加えてルックスもいい、というか、今までの声優とは桁違いね。美人すぎる声優というと、加藤英美里とかがそうらしいんだけど、声優にしては美人すぎるというのを倒置したもので、揶揄も入ってる。でも、彼女は、掛け値なしに美人、というかかわいい。でも、AKB48とかだと、このクラスはざらにいるわ。だから、香菜ちゃんが、地下アイドルからここまで来れたのは、ルックスだけによるとは考えられない。ルックスだけなら、地下アイドルと彼女は、紙一重でしょうね。近頃の子は、発育がいいから。
地下アイドルをする前に、香菜ちゃんは、あっぱれさんま大先生に出てたのよね。あれは、天てれと並んで、たくさんの子どもを起用してたわ。今は、子どもをたくさん出すっていうのは、天てれしかない。大きなお友達のまなざしが向けられていることに対して、NHKならこれは教育ですから、とキリッと言えるけど、他ではそういうことは言えないので、できなくなっているのかもしれない。まいんちゃんもそうだけど。さんま大先生は、やる気のない子を選考してたみたい(Wiki)。だから落ちた人にこそ、大物は多い。坂本真綾も落ちてる。さんまは、自然体を売りにしてる人だから、子どもが子どもを演じるのを嫌ったのかもしれない。やる気のない子を選べば、それは避けられる。香菜ちゃんは、オーディションを通ったわけで、素っぽいのは、この頃からなんでしょう。
こどものおもちゃは、さんま大先生に出てくる子どもが、普段どうしてるかに焦点を当てている。これは目の付け所としてはいい。東浩紀も褒めてた。紗南ちゃんは、親から捨てられて拾われ、家では親子ごっこみたいなことをして、外では明るく振る舞ってるわ。でも、自然体なの。このバランスは、他では味わえないかもしれない。シンジ君の同時代人ではあるんだけど、シンジ君みたいにはならない。
話が逸れたけど、香菜ちゃんは、声がいいのとルックスがかわいいだけじゃなくて、なによりキャラが洗練されている。このキャラは、たぶん、修行時代と遍歴時代の賜物でしょうね。《uffとやさぐれと素っぽさがうまくマッチしてる》(花澤香菜 Part31-969)。キスプリクラがキャラにダメージを与えることはない。キャラというのは、戯れなのね。香菜ちゃんは、紛れもない天使なのであって、それゆえ、天使なんかじゃないなんて言わなくていい。もちろん、ビッチなんかじゃないなんてなおさら言わなくていい。


2010年05月15日(Sat)▲ページの先頭へ
ちっちゃいっていうな
うんとねー、えっとねー、じゃ、これ。うさりんネームちっちゃいっていうなさん。
ゆかりん、こんばんわ。ゆかりんのラジオを毎回楽しく聞いてます。でも、たまには他の声優さんのラジオも聴いてみようと思い、伊藤かな恵ちゃんのラジオ(注1)を聞いてみました。すると驚いたことに、かな恵ちゃんは、男女が一緒の部屋で何をするか分からないとか、そんなことを言っていました。そんなことってありうるのでしょうか?猫を被ってるだけでしょうか?猫を被ることにかけては誰にも負けないゆかりん、教えてください。
え、ゆかり、猫なんて被ってないよ?
かな恵ちゃんかー。小学生みたいなルックスよね。声優の歴史を紐解いてみても、ここまでのルックスはいなかったんじゃないかしら?金朋は、幼稚園児みたいな声およびキャラではあるけど、ルックスがそうだとはいえない。キャラ、ルックス、仕草…、これを小学生で揃えてきたというだけで、素直に賞賛したい。ちょっとした奇跡。
井上麻里奈と並んでいるところなんか、感動すら覚える。元コスプレイヤーのお人形さんみたいなのと小学生みたいなの…。この二人をセレクトした人は、すごいと思う。
猫を被ってるか?基本、キャラなんだけど、ありうる範囲に収まっているというのがポイント。顔と声を中心に、持っているものを組み立てるわけ。かな恵ちゃんの中心は、いうまでもなくそのちっちゃいルックス。それを活かしきってると思うわ。
もし猫と被ってないとしたら、もう少し「君に届け」のような純粋なのとは別の欲情に彩られた少女マンガを読んでおくべきだったと、ナデシコのように言うべきでしょうけど、人はいろんな経験を経て、「君に届け」のような純粋なのに戻ってくるものなの。
少女マンガの世界に生きてます、っていってるけど、女の子は付き合いたいって思ったら、付き合えるもの。それで、ルックスに合わせて(?)付き合ったことがないっていうことにしようと思えば、付き合いたいって思わないこともないけど、理想が高いので相手が見つからないから、まだ付き合ってません、っていうことにすればいい。そう考えると、論理的にありえないキャラではない…。
でも、植田佳奈がいっているように(注2)、裏で男なんてちゃらい、ていっていても、あるいはキャラの延長で、悪い男だっていうのは分かってはいるんですけど、男に貢いでるんです、っていっても、かわいい。ギャップがあっても構わないっていう洞察ね。
それにしても、アイドル声優第1世代(?)は、ほっちゃんなんてグローバルスタンダードアイドルとかいってくらいで、いちおう幅広い層にアピールしようとしてたわ。ディープだとしても、ゴスロリくらいね。今の第2世代は、やさぐれとか、うざかわいいとか、そんなニッチな属性のキャラが出てきてる。かな恵ちゃんは、ある意味で、極めつけかもしれない。
(注1)http://www.nicovideo.jp/watch/sm10529174
(注2)http://www.nicovideo.jp/watch/sm10602513


2010年05月08日(Sat)▲ページの先頭へ
穴つるし
次々と潜入してくる宣教師は、殉教を望んでいた。このように殉教すべく行動している人を思い止まらせるには、どうしたらよいか。江戸幕府は、試行錯誤の末、穴つるしという処刑法を考案する。手足を縛って、穴の中に逆さに吊っておく。周りからは足だけが見える。長く苦しむのみならず、滑稽なもがき方をするので、殉教の荘厳さがない。これにより、宣教師への人心は離れ、彼らが来日することもなくなる。(参考、柄谷行人「坂口安吾とフロイト」)
幕府としては、宣教師の処刑は、公開しなければならない。非公開だと、かえって想像を掻き立てる。もちろん、安楽に死なせてはならない。それでは見せしめにならない。しかし、受苦へのまなざしは、権力への畏怖を生むとともに、受難への崇拝をも生む。死に意味を付与してしまう。それが次の殉教を招く。これは避けなければならない。そこで、足だけ見せる方法を考案したのだろう。これは、苦しいことは疑いないが、たしかに滑稽な情景であり、笑いを誘う。死に意味を与えようがない。穴つるしは、死をいかに非意味なものにできるかという思考実験としては、優れている。
四つ裂きや火あぶりは、王の権力を誇示するという命を奪う以上の意味を持っていた。しかし、ギロチンや絞首台は、一瞬で死ぬので、命を奪うという以上の意味を持たない。こうなると、命を奪うことの意味そのものが問われることになり、今やそれに十分に答えるのは難しい。これに対し、穴つるしは、死にどのような意味も与えないことを主眼としており、そうした問いに答えるつもりはもとよりない。


2010年04月30日(Fri)▲ページの先頭へ
破綻させる
朝日新聞に、国を破綻させればいい、そうすれば日本人は頑張るだろう、という投稿が載っていた(冨山和彦「破綻させる」、朝日新聞4月1日付)。このような論旨の背景としては、一度作られた利権(ないし既得権)は排除できず、増殖していき、全体を喰らい尽くしてしまうということがある。いっそそれに委ねよ、ということであろうか。破綻すれば、利権ごと壊れるので、再スタートできる。


2010年04月23日(Fri)▲ページの先頭へ
斎藤美奈子
斎藤美奈子が、1Q84のレビューを朝日新聞4月17日付(発売翌日)に書いていた。太宰治は、彼の内面を自分だけが分かっていると読者に思わせたが、村上は、彼の世界観を自分だけが分かっていると読者に思わせる。それが、謎本を誘発する理由である。第1,2巻が、謎をばら撒く問題編だとすると、第3巻は、それを回収する解答編といえる。処女懐妊には驚いたが、それを含め、ほとんど神話や聖書の世界になっている…。
世界観がどうのこうのは、物語消費論から大塚がずっと言っていたことですが、今年になって巻き返してきた感じです(「セカイ系とは何か」とか「神話が考える」といった東浩紀に近い人の初の単著で練り直されている)。大塚自身、サブカルチャー文学論で、謎本誘発に一章割いていたはずですが、自らの理論に従えば、一章割かずとも、すぐに解は出たはず…。世界観(=大きな物語)、物語(=小さな物語)、キャラクターというのが、キャラクター小説の作り方における、キャラクター小説の3要素でした。キャラクターというのを出してきただけで、物語消費論の枠組みを踏襲している。世界観からキャラクターにヘゲモニーは遷ったものの、サブカルは、大塚の掌で踊っているだけなのかもしれない。


2010年04月16日(Fri)▲ページの先頭へ
マーガリン
《カンボジアの死(注、文民警官戦死)に扱ひが気にくはぬ成るつたけ薄く引けマーガリン》(岡井隆「神の仕事場」)。湾岸戦争の後、国際協力の姿が模索される中、カンボジアに文民警官を派遣したところ、殺されてしまった。その死の扱いが気に食わないので、岡井隆は、マーガリンに怒りをぶつけた(?)ということなのでしょう。マーガリンは人生のことなのかもしれない。人生は、マーガリンのように他愛もない。だから、意味など考えてはならず、その他愛もなさの中に充足して、マーガリンを「成るつたけ薄く引」くように、細く長く生きればよいのである。文民警官のように、人生にそれ以上の意味を求めて、死ぬことはない…。
吉本隆明はこういっている。《わたしの思い込みのなかでは、中田厚仁さんの父親は、当然ながら、うちの息子は国民の合意もないで政府だけが勝手にきめたPKO(国連平和維持活動)などに無償奉仕するためにカンボジアに出かけ、生命を落とすようになったら、ただの犬死だからよせというのも聞かずに、出かけて射殺されてしまった。どうか日本の青年たちは息子のような無駄死などはせずに、じぶん個人の愉しみや生きる目的のためだけ生涯を使って下さいとでも言うものと想像していた》(「UNTACなど認められない」)。
http://wiki.livedoor.jp/shomon/d/%C3%E6%C5%C4%A4%B5%A4%F3%A4%CE%C9%E3%BF%C6%A4%D8%A4%CE%B0%E3%CF%C2%B4%B6
戦後民主主義の帰結としては、こうなるのでしょう。「〈民主〉と〈愛国〉」で、吉本は「「公」の解体」と括られていますが、「公」の解体というコンセプトは、戦後民主主義を純化したものと捉えるべきでしょう。ここでは、どこまでも「私」の中で充足しなければならず、外からの意味付けなど求めてはならない。そんなことをすれば、せっかく築いてきたシステムが崩れてしまう。
イラク人質の高遠菜緒子をモデルにしたと思しき「バッシング」という作品は、彼女の行動を、〈日本には居場所はないんだ、でもイラクで人助けをしているうちは認めてもらえるんだ、だからイラクに行くんだ〉というシンジ君のような論理で解釈していました。これに似た論理で、文民警官も捉えられたのでしょう。


2010年04月09日(Fri)▲ページの先頭へ
小倉優子的
かな恵ちゃんの超ラジ(注)に、君に届けOPの歌手タニザワトモフミがゲストにやって来て、下心について語り始めたので、君に届けOPをかけて話を遮るというシュールな(?)光景が見られました。男子の実態を知ろうというコーナーで、メールがかな恵ちゃんの立脚する少女マンガの世界観と抵触したとき、救済措置(?)として、ボタンを押せば、好きだと再三いっていた君に届けOPを流すことができ、ついでに映像がお花畑に切り替わる、というふうになっていた。少女マンガの世界観を歌う歌手に下心について語らせることで、かな恵ちゃんの世界観を崩してみようという試み。仕組まれていることは、そのとき、画面がかな恵ちゃんの方だけお花畑になっていることからも分かる。
かな恵ちゃんのキャラを崩壊に追い込むというのは、マゾっぽくて(?)いいかもしれない。ことさらに作られたキャラを破綻させかねないものに、キャラを晒してみるというのは一つの芸風なのかもしれない。小倉優子的…。いや、もちろん、かな恵ちゃんは純真な子で、キャラなんてぜんぜん作ってないんですけど。幽遊白書に、何も知らない幼女に無修正のAVを見せるように(?)、っていう台詞がありましたが、このラジオも、そんなテイストなんですけど。
(注)http://www.nicovideo.jp/watch/sm10134843


2010年04月01日(Thu)▲ページの先頭へ
やらせ
田原総一朗のサンデープロジェクトが終ったようです。
彼は、60年代、東京12チャンネルにいたころ、《「過激な題材」を元に、「やらせ的な演出をして、その結果としておきる、スタッフ、出演者、関係者に生じる葛藤までを、全て撮影する」手法をとった。田原の著書『青春この狂気するもの』に、この「確信犯的」な手法が書かれており、その本を読んで衝撃をうけた、原一男に手法が引き継がれた》(Wiki)とのことで、大したものです。出来事にどう対応するかで、その人の真価が決まるというような考え方があり、しかし出来事など待っていても起こらない、ならば出来事をぶつけてみようとか、けしかけてみようとかいうのは、ひとつの手法ではあるのでしょう。サンデープロジェクトは、それを政治家に対してもやってみたということなのかもしれません。
しかしながら、それを以って、政治家の本音を引き出すとか言ってるのはどうなのか。議論というのは、コンセプチュアルで建前上のものであり、本音では出来ないのではないかと思うのですが。もともと議論をする気などないのかもしれません。それでも彼は、日本に議論のようなものを導入したということくらいは出来るでしょう。


2010年03月25日(Thu)▲ページの先頭へ
一発芸
ムーディー勝山とノッチのどちらがつまらないか、小学生が投票していた(「紳介!!ホンネの殿堂」3月19日OA)。ムーディーが勝った(?)。しかし、飽きられた一発芸を比べるというのは、どういうことなのか。何が残っているのか。
たかじんの番組(胸いっぱい)で、今年、一発芸で出てきた芸人がを飽きられたので、どうしたらいいかという相談をやっていました。ほとんど、アドバイスはなし。一発芸で出てきて、それが飽きられたのだから、どうしょもない。番組では、起死回生を賭けた二発目を思しきネタが披露されていましたが、放送限界でした。
ムーディー歌謡は、ムード音楽はムードさえあればよく、歌詞など無内容であってもよいのではないかという着想から来たものでしょう。しかし、その無内容さは飛びぬけており、けっこう好きでした。エロ詩吟は、詩吟という高尚なものとエロのギャップだけで成り立ってるのでしょうが、内容は変えられる。しかし、こちらは全く同じ。ちょっと時間を与えられて、一発芸をやってみろというのも、考えてみれば過酷ではあります。


2010年03月17日(Wed)▲ページの先頭へ
ババアゾーン
老人ホームで男は孤立するけど、女は友達ができるらしい。(宮台真司がしきりに言っている。)女は、話に意味がまったくないので、逆に通じるものがあるのでしょう。ガールズトーク…。アット・ババアゾーン…。
どうやら、心理学の本を齧ったところによると、男同士の友情が強いように見えるのは、距離が遠いからにすぎず、女同士の方が距離が近く、それゆえにいざこざも耐えない(?)ということのようです。話の内容も、男は知ってることを並べたがる(オタクトーク…)。女は、自分らの恋愛の話とかもするようですが、これは知識よりも身近なもので、距離を近づける。
従って、老人ホームだと、ライフコースが異なれば、知っていることに重なりがないため、男は話が合わない…。今、ここで消えていくような会話でなければ通じない場所なんでしょう。


2010年03月09日(Tue)▲ページの先頭へ
サブカルのページ
日本では、Wikiのアクセスの8割(!)を、サブカルのページが占めるようです。諸外国は、軒並みもっと低い。(朝日新聞3月2日付朝刊)分かります。僕らなんか、サブカルを除けたら、スクールライフが残るだけみたいな日々を送ったわけで…。時代との接点というとそこしかない…。
識者のコメントによると、日本のネット利用の特徴として、サブカルが中心というのがあるらしい。しかし、それに止まるのかどうか…。10代は、スクールライフとサブカルを行ったり来たりで終ったような。近景と遠景(?)しかないとでもいうか…。会社に入るまでは社会と関わりなどないわけで。それがいいかはともかく。


2010年03月02日(Tue)▲ページの先頭へ
Z会とは何か
同じことばかり繰り返しているような気もするのですが…。
落穂拾いのようですが、Z会とは何か、を考えてみたい。予備校が全てであれば、なぜZ会の入る余地があるのでしょうか。Z会は、考える力が旗印です。しかし、考えるとはどういうことなのでしょうか。もちろんハイデッガーがどういっているかとか、そういうことを述べたいわけではないのですが…。
大学入試は、暗記とパズルの二つしかないのですから、考えるとは、このうちパズルを指しているのでしょう。難しいパズルは、閃きを求めます。つまり、Z会は、閃きを問うている。考えるとは閃くこと…。そこから滑り落ちているのは、概念を操作することでしょう。
しかし、学問とは、抽象的な思考であり、概念は避け得ません。大学で学問をしようと思えば、すこし頭を切り替えなければならないのかもしれません。しかし、この国における概念そのものの不在は、どうなのか…。例えば、民主主義などというのは概念ですが、概念そのものが不在であるので、根無し草めいて来るのは否めない。
Z会は閃きを問うているところまで話を戻すとして…。入試は、典型ではなく、それを少しひねった問いを出して来るものですが、閃きまではいらないことが多い。ですから、閃きばかりを問うのは宜しくないと思われます。Z会にはそういうコースもあるようですが(今は知りません)、そこまでではないコースで十分ということになるでしょう。
では、Z会の入る余地は…。Z会は演習にはなる。だから、役には立つのです…。中高一貫などで、きちんとインプットさえしていれば…。それに、息抜きとして少しくらいは考えようってことなんでしょうか。暗記だけでは息が詰まってしまう…。


2010年02月22日(Mon)▲ページの先頭へ
パズル
予備校は、試験のコードを解析したうえで、体系的にカリキュラムを組むので、そこに出来上がるのは、必然的に某RPGのごとき一本道である。従って、受験のためには予備校があればよく、高校は不必要な存在となる。田口賢司はこう言っている。《予備校が「教育」にとっての「必要悪」ならば、高校はいうまでもなく「受験」にとっての「不必要悪」、「悪」そのものであることは間違いない》(「受験参考書の愉楽」)。
おそらく私学は、こうした状況の下、予備校化したといえるでしょう。中高一貫校などは、5年で(?)カリキュラムを終え、後は演習を行うわけです。《演習には高校の教材『スタンダード受験編』(数研出版)のみを忠実にこなしている受験生を最難関に合格させる不思議な力が秘められている。演習こそ受験数学にとって黄金と思える》(前掲書)。スタンダードは、やった記憶がありますが…。
演習の位置づけというのは、どういうものなのでしょうか。東條英機は「勉強は暗記だ」と悟ったらしいですが、これはこと日本では真を突いていると思われます。とすれば、暗記と演習はどのような関係にあるのでしょうか。
おそらく、演習は、解放の暗記なのでしょう。知識の暗記のみならず、解法の暗記も求められるのです。入試問題は、暗記をベースにしたパズルだといってよいでしょう。
要するに、暗記とパズルが出来れば、大学は通るのです。そこから滑り落ちているのは、概念を操作することでしょう。おそらく、出題する側もそのようなことはできない。日本発の概念は、無のヴァリアントしかないのではないでしょうか。


2010年02月14日(Sun)▲ページの先頭へ
受験参考書の愉楽
田口賢司と早稲田大学受験参考書研究会「受験参考書の愉楽」(1986)を読んでみた。9千円したが…。田口賢司の巻末の檄文(?)によると、受験生活のゴールは一つであり、全ての欲望はそこに向かっている。しかし、欲望は一つの方向に向けられるからこそ、逸れてゆく。本書は、受験参考書から、そうした逸脱を読み取る試みである。逸脱した欲望は再回収され、欲望の流れをさらに強化する。つまり、やる気が出る。そうしているうちに、その欲望は、同じ平面でまったく別のものに生成変化するかもしれない。
しかし、欲望がリニアに流れているのは、モダンの遺産ともいえる。そのためには、少なくともゴールが魅力的に見えていなければならない。現在において、ゴールは輝かしいものとはいえず、欲望がリニアには流れなくなってきている。立志・苦学・出世(竹内洋)というのは、もはや過去のものである。
ポストモダンは、人からやる気を奪う。田口賢司は、檄文の趣旨につき、やる気をひたすら鼓舞するものであると述べる。予備校は、試験のコードを解析し、体系的にカリキュラムを組むことで、某RPGのごとき一本道を作り上げる。今やスタートからゴールまで道は舗装されている。しかし、一本道ゆえ、やる気を失わせるおそれがある。そこで、予備校は、何とかやる気を起こさせようとする。予備校が試験のコードを解析できたのは、モダンが終り、ミネルヴァの梟が飛び立つ時が来たからであろう。同じく、ポストモダンの思想(例えば、フーコー)も、近代のコードを解析したといえる。しかし、どう生きるかはまた別の問いといえ、それにも答えてはいるのだろうが…。


2010年02月06日(Sat)▲ページの先頭へ
卒業
週刊本28卒業(1985)は、アイドルをポストモダンのジャーゴンで語っている。そういう時代があったということだろう…。4千円出して買ったので、自分の言葉を加えつつ、まとめてみよう。百恵やら聖子やらは自意識があり、物語を生きている。百恵までは自意識がなく、プレモダンであったが、彼女らによりモダンに到達した。しかし、伊代はポストモダンである。彼女は差異を解体した。この言辞は、ポストモダンとは差異の戯れだとすれば、おかしいようにも思われるが、伊代は、任意の少女(=アリス)であるという趣旨であろう。それに加えて、KYON2は、カオスを爆発させる(=アルトー)。この二人は、アイドルとは何かという問いを解体している。なんてったってアイドルというフレーズは、アイドルを解体したが、彼女らは、最初からそのフレーズを生きていた。
卒業は、ゲーム、受験、少女、アイドルといったマターにつき横断的に対談しているが、少女とアイドルは一続きに読むことができる。少女の生成変化では、根本聖子(きよこ)が最先鋭であった(注)。二項対立を脱構築するのがポストモダンだとすると、男女は、真っ先にその対象となるが、彼女は、中性的であり、知性がセクシーさを感じさせる。しかし、KYON2は、それをさらに更新してゆく。
(注)THEY DON’T KONW、憧れのスレンダーガール
http://yaplog.jp/judylane1955/archive/433


2010年01月30日(Sat)▲ページの先頭へ
安全のファシズム
明石歩道橋事故で検察審査会が副所長に2度目の起訴議決を出し、起訴されるようです。こうした制度自体は、理念的にも裁判員制度とのバランスからももはや批判しがたいものの、その一件目が過失だということの意味は、あるかもしれない。
日本の過失はかなり広いのではないか。比較法的に見て。分からないが。予見可能性は、それなりの度合いのものでなければならないはずだけど、飛んでいる。(副署長は、その基準でもシロなのかもしれないが)。ほんのちょっとした過失でも罰することで安全を図ろうという安全のファシズムとでもいうものがあるのかもしれない。検察官が狂っていることはたしかだが、国民はもっと狂っている。


2010年01月23日(Sat)▲ページの先頭へ
水俣病
ばら撒けなくなるまで、ばら撒いた。水俣病は、垂れ流す必要がなくなるまで垂れ流したといわれてますが(見田宗介「現代社会の理論」)、それと同じ。この限りで、検察の訴追により、歴史が変わったという痕跡は認められない。なにしろ、ばら撒きは、ばら撒けなくなるまで続いたのだから。
政治に期待されていることは、ばら撒きだけであった。従って、一つしか政党はいらなかった。それが自民党だった。政権にいることは、ばら撒くこととイコールであった。政権にいなければばら撒けず、そうなると自民の価値はない。
国民は、ばら撒きしか政治に期待しないので、政治家に求められる資質はただ一つ、クリーンであることである。しかし、おそらく、ここまで政治を舐め切っている国民も珍しい。政治とはばら撒きであるというのなら、政治からばら撒きを引くと、何も残らないことになる。


2010年01月16日(Sat)▲ページの先頭へ
ソラノヲト
ソラノヲトは、まんまけいおんだった。画面を見たときの驚きは、ストライクウィッチーズ以来のものでした…。キャラデザがまんまだし、作画も…。けいおんの5人のうち、変わったのは律だけ、みたいな感じ。1人だけいなくなるっていうのは、人気なかったんでしょうね。集団移住みたいなものでしょうか。誰かに似たキャラならいくらでもいるけど、みんな似てるというのは、ある意味で新しい…。
今後を占ってみると、のほほんとした日常から鬱に雪崩れ込むものがはやった時期もありましたが(ニアや灰羽、あるいはエルフェンリート?)、たぶん、のほほんとした日常に終始し、死の隠喩が付きまとうだけで終るでしょう(ポニョ!)(注)。そうなるかもしれない、というだけで止め、そうなるルートは想像に任せる(色々と分枝させるのにも、もう飽きた)。しかし、そうだとすると1話だけ見れば、分かったつもりになってよいわけで、そういうのもいいのか悪いのか…。tt…。
(注)ソ・ラ・ノ・ヲ・ト 第8小隊
231 :風の谷の名無しさん@実況は実況板で:2010/01/06(水) 14:27:02 ID:KKEus9fr0
さんざん鬱展開と見せかけて超展開のハッピーエンドと予想
新枠の一発目でそんな冒険はできないし、ストパン的な終わり方に落ち着くのではないだろうか
234 :風の谷の名無しさん@実況は実況板で:2010/01/06(水) 14:32:19 ID:/fwqM3qB0
いや、終始のほほんとした日常生活だろ
ただし常に死の隠喩が付きまとうポニョ路線


2010年01月09日(Sat)▲ページの先頭へ
メイドロボ
メイドロボが欲しい。ちょびっツでは、愛玩メイドロボをパソコンっていっているけど、かなりセンスのいい命名といえましょう。パーソナルコンピューターですからね。真に“パーソナル”なコンピューターは、ちぃみたいなものだと思います。機能はパソコンと同じでも、生き物の形をしていて、従属していて、愛玩できる。僕も欲しいです。アラン・ケイは、「パーソナル・コンピューターは、われわれが望むどんな方向にも発展させられるが、真の罪悪は、機械でも相手にするようなつもりで、コンピュータを使うことなのである!」(「アラン・ケイ」鶴岡雄二訳)と述べている。


2010年01月03日(Sun)▲ページの先頭へ
ベストボイス
ゼロ年代も終ったことだし、ゼロ年代のベストボイスを考えたい。思うに、灰羽連盟の広橋涼がいいのでは。「あ、雪だー」とか。true tearsの名塚佳織も、「あの日から雪が嫌いになったの」「私、雪の海って好き」「あ、雪」等々といっていましたが。名塚は、作品的にこれというのはないようにも思いますが、比呂美はよかった。
ゼロ年代より前は、こういう声は聞かれなかったのではないでしょうか。デジタル化して、ずいぶん絵柄が変わり、黒瀬陽平(?)ではないですが、背景が現実っぽくなったのは否めないでしょう。キャラまで2次元でなくなると、もうアニメじゃないという感じもしますが、その声は、現実から遠ざかるか、(広橋、名塚のように)逆にリアルっぽい(?)ものになるか、二分化して来てるのかもしれません。


2009年12月27日(Sun)▲ページの先頭へ
サイハテ
フルカワミキ「サイハテ」(注)ということですが、どうですか?スーパーカーの人みたいです。彼女の声を基にしたボーカロイドが発売されたらしく、それで、ミクのカバー曲を出したということらしい。
ボーカロイドは、微妙なところから作るもので、フルカワミキだって…。たしかに、無機質な感じで歌う人ではあるけど。ミクの中の人なんて、名前忘れたくらい。あと、ランカリーは酷い。あれの“痛車”が山手線を走っていたけど、見てられない。
サイハテには、「もともと人間が歌うような曲じゃない」というコメントがニコニコに付いていたけど、たしかに、人間は、喪に服する曲を淡々と歌うことはしないのかもしれません。それを踏まえて、あえてカバーしたんでしょう。フルカワミキも、淡々と歌っていますが、しっくりとは来ていない。妙に色っぽくて、いいような気もしますが。
(注)http://www.nicovideo.jp/watch/sm8983068


2009年12月20日(Sun)▲ページの先頭へ
パラメーター
ドミニクチェンって人が、ユリイカRPGの冒険で、最近のFFは、パラメーターの調整とムービーだけだといってる。そして、これはわれわれの人生の反映だと。
たしかに。営業なんか、下らない本で知識を得、 笑い方とか学び(パラメーターの調整)、 「買ってください」(ムービー)。あるいは女。化粧して(パラメーターの調整)、男に会って、はあはあする(ムービー)。
こう考えると、ドラッグはダメとか(ダメ絶対とか)、いかにアホらしいかが分かる。もはや、パラメーターの調整しかすることはないのであり、手っ取り早くできるならそれがいちばん。あんまり強すぎるのは困るとは思うが、ちょっとしたものまで取り締まるというのはあまりにナンセンスであろう。


2009年12月13日(Sun)▲ページの先頭へ
人生終っている
今や、伊藤かな恵について語るときなのかもしれない。しかし、伊藤かな恵について語っている人はすべて、人生終っていると断定できる。けれども、人生終っているとはどういうことなのか、それを問うこともできる。意味の織物として社会を見れば、その外に出てしまっていることとでもいえようか。ホームレスの多くは、統合失調症らしい(注)が、社会の外に出てしまい、人生を意味により包摂できなくなったのであろう。伊藤かな恵ちゃんが好きだというとき、人生終っているというのは、かわいい子供が好きというのみならず、そのまなざしで大人をも見ており、出口が塞がれているからであろう。
例えば、宮崎あおいが好きというのであれば、最大公約数に過ぎないともいえる。木村カエラ(?)によると、嫌いな人はいないと思う、ということである。にもかかわらず、好きだ、と言いにくいのは、なぜか。少女の面影の残存していることが、その魅力の土台にあることは疑いなく、ロリであることが露呈してしまうからであろう。木村カエラが正しいとすれば、みんなロリコンというわけだ。
伊藤かな恵ちゃんは、まったくのところ、青二のちっちゃいのとしかいいようがなく、他に、あおいちゃんならばいえる表情が多彩だとか、そういった逃げ道は一切ない。表情の多彩さについていえば、モデルにはそういうのはないが、不機嫌そうに歩くのがモデルなので、しょうがないともいえる。かな恵ちゃんは、いつも笑ってはいるが、それだけである。怒っているかな恵ちゃん、泣いているかな恵ちゃん…。
ネットラジオで、動くかな恵ちゃんをそのまま配信するというような企画は、どう考えても無理があるものの(テレビではないが、ラジオでもないという)、見る人は見るのであろう。かくいう私もその一人ではあるが。
(注)《2009年9月2日付毎日新聞によると、ホームレスの6割以上が、うつ病や統合失調症など何らかの精神疾患を抱えていることが、久里浜アルコール症センターの精神科医師らの実態調査により明らかにされた》
http://www.kokoro-iyashi.info/archives/1295967.html


2009年09月26日(Sat)▲ページの先頭へ
相対評価
試験が難しいのは、学習内容が難しいからではない。中学入試を考えてみれば分かる。小学生の学習内容が難しいとは、普通はいわれない。しかし、小学生ならば中学入試の問いをみな解けるというわけではない。なぜか。学習内容から問題までは距離があるからである。その距離を埋めるため、解き方を知っていなければならないのは勿論だが、それを踏まえたうえで、その場での機転が求められる。この解き方をどう教えるかが塾の領分であるが、そこから先、どう機転を利かせられるかには、不確定な要素が漂う。相対的な頭のよしあしが、問われることになる。知っているべき知識の総量が少ないだけに、この部分のウエイトは大きいといわねばならない。宮台や東は、小学生のころ、何の準備もなしに全国模試を受けて、一桁の成績を取ったことを語るが、頭のよさとはこういうものだろう。
入試のような相対評価を競う試験では、解き方に加え、機転という要素が絡むため、教えても上手く行くとは限らないが、だからこそ塾が隆盛を極めることになる。どこまで行っても相対評価のため、どこまでもヒートアップすることになる。ここに塾が宿る。入試が全ての動機付けであり、入試がなければ日本の教育はない。学習内容を絶対評価するという趣旨ならば、こうした現象は生じないはずであるが、それでは動機付けに欠くだろう。
入試のための勉強は、入試にしか役に立たない。覚えたことの使い道などどこにもなく、もはや問題を解かなくてもいいのだからその解き方など忘却の彼方であり、機転といったものはその場限りでしかない。頑張ったことが財産になるという言い方はできるのかもしれないが、いかにも空疎ではある。
(10月、11月は、ネット環境にないため、休みます…。)


2009年09月20日(Sun)▲ページの先頭へ
入試
日本の教育システムは「中学」「高校入試」「高校」「大学入試」「大学」というふうに進んでゆくが、「高校入試」「大学入試」の果たす役割は大きい。「高校」の教育内容が「大学入試」を規定しているわけではなく、「大学入試」が「高校」教育を規定している。「大学」の教育内容に至っては「大学入試」とまったく関わりない。「大学入試」を規定するのが「高校」教育でも「大学」教育でもないのなら、一体何なのか。「入試」であることそのものでしかないと思われる。
「東大生のノートはかならず美しい」「東大生はどんな本を読んできたか」といった本が並んでいるが、東大生はノートなど取らないし、本も読まない。「大学入試」で覚えたことを片っ端から忘れ(それが出来るものだけが、東大に入れる。)それから何も学ばず、東大卒という肩書きだけで世を渡っていけるということだけが、東大に入る意味であった。


2009年09月13日(Sun)▲ページの先頭へ
エスモカ
エスタロンモカのパッケージには、「ねむけ・だるさに」って書いてある。自分の経験に照らしても、エスモカを飲むと、「ねむけ」が引くだけではなく、「だるさ」が除かれていくのを感じる。カフェインの他には、ビタミンB1,6,12しか入っていないのですが、「だるさ」の除去に関わるのどの成分なのだろうか。
思うに、人は「ねむけ」に打ち克つためにエスモカを飲のでしょうが、そのためには、カフェインで覚醒させておくだけでは足りないということなのだろう。「だるさ」を除去しなければならない。消極的ではあるが、「だるさ」がなくなると、少しくらいやる気が出てくるものだ。こうして物心両面に働きかけることで、ようやく「ねむけ」に打ち克つことができる。環境管理とは、身体(「ねむけ」)と共に、精神(「だるさ」)にも働きかけるものなのだろう。鬱病も薬で治るようだし、21Cはクスリの時代なのかもしれない。


2009年09月06日(Sun)▲ページの先頭へ
縮図
大西巨人「縮図・インコ道理教」は、「皇国」の縮図をオウム真理教に見ている。これによると、麻原は天皇に当たる。
渡部直己「不敬文学論序説」は、黙説法を鍵概念として、近代日本文学を語る。黙説法とは、ある物について語らないことで、何物かが存在すると思わせるレトリックらしいが、近代日本では、天皇に接近させると同時に、そのものについては語らせないことで、天皇制が作られていった。中心には何もないが、何もないと言わせないことで、何かがあると思わせること。
麻原裁判では、その語らせない対象である天皇に、何かを語れと強いるという顚倒が生じた。当然というべきか、麻原から意味のある言葉は聞かれなかった。アンダーグラウンドにおいて、被害者たちは概ね多弁である。オウム裁判でも、罪が軽い者ほど、必死で反省したものだ。しかし、中心に近づくほど、沈黙が増してゆく。
オウム事件では、天皇の率いる国家が日本中枢を襲ったばかりか、その後の裁判で、天皇が裁かれたわけで、天皇制が少なくとも変容していることは疑えない。
麻原裁判の意義は大きいといわねばならない。弁護団長である渡辺脩の「麻原を死刑にして、それで済むのか?」(注)は、お白洲を拒否したものと、野口武彦に評されている(朝日新聞の書評欄)。お白洲は、土下座しか許さない場所であるが、土下座においては、意味のある言葉を語ることも禁じられる。たしかに、麻原は、天皇だから当然というべきかも知れないが、意味のある言葉を喋らなかった。しかし、土下座もしなかった。こうした存在は、日本の法廷という場所そのものを震撼させたといっていい。
(注)村井指揮説が唱えられている。全て藤原氏が悪いというわけだ。


2009年08月29日(Sat)▲ページの先頭へ
スク水
「スクール水着の優位性」(注1)という現役高校生、崩条リリヤ先生のテクストを読んでみた。曰く、ビキニは、下着を連想させるので宜しくない、少なくとも清楚とはいえないだろう、だがスク水はそうではない。
思うに、スク水ほどラインがはっきり出る服装はない。スク水は、肌に密着しているためすべての体の線が明らかにされる。しかし、同時に、すべてが隠されている。ここからは、女子へのまなざしのありようが窺える。見たいことは見たい、しかし、清楚ではあって欲しい…。なお、拙稿「セーラーふくの論理学」(注2)は、ブルマとスク水の連続性に着目している。
スク水は、制服のひとつであり、紺という色合いもそこから来るのであろう。制服を着ているときまでが少女であると言い切っていいと思われる。高校を卒業してからは、一様の制服を着ることはもはやないが、彼女らは、お嬢さんではあってももはや少女ではなく、スク水を着ることは、特殊なシュチエーションでもない限り、ないだろう。広橋涼は、二十歳になっても着ていたらしいが。しかし、より考えさせるのは、川本真琴が、短大の入学式にセーラー服で望んだというエピソードであろう。
(注1)http://neetsha.com/inside/main.php?id=6447
(注2)http://rorino.blog23.fc2.com/blog-category-1.html


2009年08月22日(Sat)▲ページの先頭へ
使徒
日本の歴史は、もぐら叩きである。もぐらとは他者である。諺にもあるように、出る杭は打たれるのである。出る杭とは他者である。こうして、内部から、他者が現れない構造が出来ており、ゆえに非歴史の中を漂うことになる。(しかし、外部から、ときどき他者が現れる。渡来人やら黒船やらである。これらは、念入りに他者性を消去されていく。無事に非歴史に回帰するわけだ。)
エヴァの使徒は、大塚英志によると「「他者」みたいなものをアニメなりまんがなりのオタクの表現が初めて形象化した」(「だいたいで、いいじゃない。」)ものであるという。使途という他者が現れるたびに、それを殲滅してゆくわけで、これももぐら叩きであるといえよう。もぐら(使徒)叩きが終っても、人類自身使徒であるのなら(「とはいえ、私は一個の他者である」、アワーミュージックに引用されているレヴィナスの言葉)、それももぐらであるといわねばならない。人類補完計画が企図される所以である。
アスカは、作品世界の他者であり、首絞めも、もぐら叩きの延長と考えれば分かりやすいかもしれません。しかし、シンジは、いちおうはアスカと共にいることを望んだわけで、新劇場版がループだとすれば、その記憶(?)は残っているはずで、だから「やりなおすようにみんな全力でハッピーを目指してるって感じ」(東浩紀スレ287-905)になるんでしょう。しかし、人類補完計画は背後に残っているのですから、根本的には変わっていないともいえるでしょうし、変わってしまえばもはやエヴァではないともいえるでしょう。


2009年08月15日(Sat)▲ページの先頭へ
委員会
何が正しいかは法廷が決める、という考えがある。それは、あらゆる正しさを法廷が判断できるということを前提としているが、象徴界の失調は、そのような権威をもはや法廷に認めない。何が正しいかは、個々の委員会が暫定的に決めるしかない。薬害エイズの神話とでもいうべきものがあり、検察はその成功に酔っているのかもしれないが、法が専門家を裁けるなどというのは傲慢であろう。JR事故について、委員会がどうしょもないといっている箇所が起訴されているが、法廷が委員会の判断を覆したとしても、その正しさを認めなければならない理由はどこにもない。このような訴訟は無意味であろう。法廷も一つの委員会なのである。


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