風子思考集成/一覧

fuukoについて




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2009年08月09日(Sun)▲ページの先頭へ
穢れ
のりピー…。覚せい剤で、アイドルのイメージは壊れるのであろうか。ミュージシャンなら別にどうということはないが、アイドルには苦しいとすれば、なぜなのか。分からないが、ピュアというのは、汚れ(穢れ)がないことであり、覚せい剤は穢れとして見られているのかもしれない。穢れが嫌われる文化圏なのであり、アイドルはピュアでなければならない。
しかし、ピュアを持ち上げすぎなのではないか。そういう名前の写真集は後を絶たない(清水香里でさえ、そういう名前の写真集を出している)。ピュアピュアなる雑誌まである。児童ポルノはサモトラケのニケよりも美しいということなのだろう。
ところで、華原朋美は、ピュアではないがイノセントではあると、中原昌也が評していた(「サクセスの秘密」)。ピュアとイノセントの差異を考えるに、例えば、ヴィスコンティの遺作がイノセントであることからも、西洋人がイノセントを好むことは窺えよう。


2009年08月02日(Sun)▲ページの先頭へ
地頭(その2)
高野隆氏は、「自白の現状に対して裁判官はあまりに無知ですよね。最も無知な人間が最大 の権力を持っている」(注)といっている。天皇(裁判所)は、地頭(警察)がいかに酷い ことをしているか知らないといいたいらしい。たしかに、彼らは世間については無知なの であろう。しかし、地頭(警察)の横暴については、むしろ目を瞑っているといったほうが正しい。法廷で自白の任意性をめぐる攻防は、幾度となく繰り返されているのである。
現状を知らないからという理由で、天皇(裁判所)は免責され、当然のように、国民は免責されていく。天皇が免責されたことで、国民が免責された(参照、柄谷行人「倫理21」) ように。しかし、地頭(警察)の横暴に耐える国民という構図は、疑われてもよい。無罪判決を怖れているのは、むしろ国民なのである。機能している裁判所にとって無罪判決など痛くも痒くもない。
(注)刑事弁護Beginners、現代人文社


2009年07月26日(Sun)▲ページの先頭へ
白シャツ
カレカノを見てると、女子の制服のほうにネクタイがあり、男子にはネクタイがないことに気づいた。気になったので調べたところ、現実にもそういう学校はあるようです。女子がネクタイをすることの意味も気になりますが、ここでは男子がネクタイをしていないことに注目したい。
思うに、ネクタイをしたシンジ君というのは考えられない。《エヴァの、夏の緑 白シャツの少年 危うい14歳 みたいな雰囲気が好き、って人に。『まぶだち』〔注、古厩智之監督、00年〕をお勧めする。不良にも優等生にもなれない屈折した少年たちの静かな青春。飄々としている主人公が格好良い》(エヴァヲタの好きな映画468)。「危うい14歳」は「白シャツ」という表象に支えられているといっていい。そこにネクタイはない。ネクタイは、半ば拘束具のようなもので、14歳の危うさを殺いでしまう。ちなみに、あむちゃんもネクタイをしていますが、伊藤かな恵は自分でネクタイを結べませんでした(注)。
(注)ボイス オブ エーアンドジー デジタルかな#29(2008.10.07)


2009年07月19日(Sun)▲ページの先頭へ
地頭
検察が起訴すれば、ほぼ100%有罪で、量刑は8掛け。これでは、事実上検察がすべてを決めているといってよい。無罪判決はお飾りである。実際、高裁で紙切れのように破棄される。このように検察が事実上裁いているのにもかかわらず、なぜ裁判所が存在するのであろうか。
検察はいわば藤原氏であり、裁判所は天皇である。検察批判が常に空虚なのは、天皇(裁判所)批判を伴っていないからである。裁判所が機能していないことを見逃してはならない。もっとも、裁判所も一定のテリトリーを有していることは否めず、最高裁は院政のようなものといえるかもしれない。なお、警察は地頭であろう。
刑事裁判において、弁護士はお飾りである。周知のとおり、彼らが何をしても意味はない。自白があれば有罪とされ(日本版自白法則。自白法則は、日本では、この意味でしか存在しない)、かつ、地頭たる警察があらゆる方法を用いて自白させているので、もはやどうすることもできない。
日本の刑事司法は精密司法ともいわれるが、それを支えているのが、この自白法則および何としても自白を得るための地頭による暴力である。精密であるからといって、暴力的でないなどと考えてはならない。上層は手を汚さないが、それは下層の暴力があってこそである。こうして現れる司法の総体は、カフカの小説に出てくる処刑機械を連想させる。地頭、藤原氏、天皇という3つの部品からなる機械が、被告の体を切り刻んでいく。


2009年07月14日(Tue)▲ページの先頭へ
ひどいこと
カレカノを、破の余波で、見てみたけど、シンジとアスカのそれからみたいな感じだから、作ったんでしょう。今さらながらな感想ですが…。アスカっていいですよね。ひどいことをしたくなる感じのおんなのこだ。破でもひどいことをされてましたが、それでこそアスカというもの。
宮沢雪野はエヴァのキャラのなかではアスカっぽい。有馬君は、どうなのか。シンジではないか…。
外キャラとかいってると(そういってはいないが)、しゅごキャラになってくる。
第1声である「私は人の目にどう映るのだろうか。」というのは他者指向ではあるけれど、どう見えるかというだけであり、彼氏彼女はそこから離れ、全人格的な承認に至る感じではある。この辺、エヴァっぽくあり、学園エヴァといっていいのかもしれない。


2009年07月06日(Mon)▲ページの先頭へ
サンタフェ
サンタフェ(宮沢りえ、17歳の時に撮られた)が児童ポルノであるというのは、理解しがたい。例えば、ルイスキャロルは、割れ目の入った少女を撮っているが、欧米でそれが発禁になったという話は聞かない。芸術性を考慮して、(規制するにしても)それなりに妥当な運用がなされているのであろう。篠山紀信が芸術的かどうかは、争う余地があるかもしれないが…。しかし、この国では、運用に期待することはできない。それは、わいせつの判例を見れば、よく分かる。最高裁が採用するのはチャタレイ夫人を有罪にできる基準であり、限定機能は一切ない。そこで、訴追する側の運用に委ねられるが、その運用の恣意性は周知のとおり。
17歳が「児童」というのも不思議ではある。高校生や中学生を好む人はロリコンなのだろうか。初潮を迎えている高校生や中学生が、性的な存在であることは否めない。肌を露わにする機会は多いはずだ。従って、問題は、しょうがくせいに限られよう。意味の消尽した現在において、商品といえるものは、しょうがくせい以外に存在しない。そして、服を着せていれば、性的でないというわけでもない。苺ましまろやガンスリンガーガールが、児童ポルノと同じまなざしで見られていることは疑いない。服だけでは足りないのだ。しょうがくせいには、イスラムの女のように、ベールでも被せるべきなのかもしれない。


2009年06月29日(Mon)▲ページの先頭へ
もぐら叩き
山田花子はこういっている。「人は数々の苦しみを乗り越えて、いつか目的地に辿りつけるという幻想を抱いているが、一つの苦しみが終わったらまた別の苦し みがやってきて、死ぬまで続くだけ」(「自殺直前日記」)。これを煎じ詰めていえば、「人生はモグラ叩きだ」(田口賢司「メロウ」)ということになるだろう。対処しなければならない出来事が、もぐら叩きのもぐらのように次々と現れるが、総体としての意味は欠如している。
刑事裁判は、犯罪人をもぐらとする、もぐら叩きといえよう。そして、もぐら叩きはいつまでも終わらない。裁判をいくら重ねても、犯罪は変わらず行われ、またしても裁判が行われる。デスノートのキラの行ったことは、もぐら叩きを終らせるためのもぐら叩きである。あらゆる犯罪の刑罰を死刑とすれば(しかも、逮捕後直ちに)、たしかに犯罪は行われないかもしれない。
日本では、諺にもあるとおり、「出る杭は打たれる」のであり、異質なものは排除ないし抑圧されるが、これももぐら叩きの要領であろう。「打たれる」と受動態でいわれるが、打っているのはもちろん自分たちである。佐藤心ふうにいえば、オートマティズムが機能しているので、自分たちが打っているという自覚さえない。キラはこうした風土のありようと切り離せないともいえる。


2009年06月22日(Mon)▲ページの先頭へ
3番目
ヱヴァ:序で、まだ3番目か、とカヲル君はいっていた。1番目はテレビ版、2番目は劇場版、3番目は新劇場版ということで、3度目の終局が語られることになるのだろう。ちょっとづつ成長しているということなのかもしれない。1番目は、自己啓発セミナーふうの承認を得る、2番目は、他者のいる現実を認める(少し成長した)、3番目は、その現実の中で何とかやってゆく、というふうに。
エヴァは中二病の古典ですが、ウエダハジメ「Qコちゃん2」に「十五歳以上の老人は要らないそうですよ」というセリフがあった。十四歳は、中二病に罹患するが、それが治癒すれば、大人ではなく、もはや老人なのだろう。


2009年06月15日(Mon)▲ページの先頭へ
子供とは何か
《大人が読んでもおかしくないような、小学生が主人公の恋愛漫画を教えてください》(注)という質問に対して回答が公募され、ベストアンサーとして、山田南平『オトナになる方法』(文庫全8巻)が選ばれている。
このような問いはなぜ問われるのであろうか。つまり、なぜ、大人が小学生が主人公の恋愛漫画を読みたいのか。ショタやロリが昂じて、そういうのと恋愛してみたくなったからであろうか。それではあまりに身も蓋もない。
小学生の恋愛は、恋愛の起原とかかわるものと考えよう。デリダはこういっている。「子供とは何かということがわからないかぎり、あなたには、幻想とは何ということもわからず、もちろんその結果として、知とは何かということもわからないだろう」(「郵便葉書」)。幻想や知は、子供を起原としているのであり(?)、もちろん、恋愛という幻想もそうである。
「われわれは子供時代の記憶と客観的に観察しうる子供を知るだけで、もはや子供の意識を内側から経験することはできない」(柄谷行人「意味という病」)ということもできるが、精神分析は、子供の意識を見てきたかのように語るものだ。
(注)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010343200


2009年06月07日(Sun)▲ページの先頭へ
1Q84
1Q84を読んでみた。ふかえりという少女が書いた小説を、編集者に乗せられリライトする男の話と、DV男を殺している女の話が交互に語られ、この二つが、新興宗教がらみで交わっていき、終盤は、この男と女の「純愛」。自分の知らないことが過去に起こっており、別の「現在」に迷い込んだことが分かる、そこは、月が二つある世界、というようなあたりは、不思議な感覚でした。全文3人称で書かれており、世界の終りのように二つとも1人称というわけでも、カフカのように交互に1人称と3人称というわけでもない。
今まででベストの村上論は、柄谷によるそれでしょうが(というより、ほとんど柄谷のしか読んでない)、自分の主観から世界を構成するありようは、自己完結しており、他者がいない、というようなもの(?)でした。これは正しい。カントを用いているわけですが、カントには物自体という他者がいるというようなことを柄谷は言い出すわけですが、村上も記号の底(?)に物自体といっていいような他者を見出していくわけですが(国境の南、ねじまき鳥)、その先はしかし、迷走しているのでは。おそらく、主観から世界を構成していることには違いはないため、他者を見出したところで、その先はないのかもしれない。80年代に1人称で語ったものを、3人称で語り直そうということなんでしょうが、どうなんでしょうか…。3人称というのにそぐわない作風という気がしないでもない。


2009年06月03日(Wed)▲ページの先頭へ
かな恵ちゃん
伊藤かな恵スレ(注)によると、相沢舞、伊藤かな恵、中原麻衣は、みんな他人に対して壁をつくるタイプだが、それぞれタイプが異なる。相沢は、自分に自信がないので自虐に走る、かな恵ちゃんは、ナルシスト、中原は、他人に無関心。
心理学を齧った人なのか、ちょっと類型に押し込めすぎとは思いますが、おおむね正しいのかもしれない。かな恵ちゃんは、自分に自信はあるのでしょう。「大して私とあむちゃんは変わらないと思うんですよ」(超ラジ#50、2:05ころ)といってますし。
「子供は子供が嫌いだもんね」(志村貴子「楽園に行こう」)というのは慧眼で、そういう理由なら僕も、子供は嫌いといわざるを得ないのですが、苺ましまろとかは好きなわけで、こういう事態は、子供とガキを分けて考えると分かりやすい。つまり、「ガキなき子供」とでもいうのを想定できるなら、それは好きなわけで、かな恵ちゃんみたいな感じの大人は、かえっていいのかもしれない。(注)伊藤かな恵 part5
902 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/25(月) 15:15:41 ID:Xlj0dMoA0
相沢さん、かな恵ちゃん、中原さんは、みんな他人に対して壁をつくるタイプだけど、分析的に見るとそれぞれタイプが違う。
相沢舞さん→典型タイプ。自分に自信がない・人に対する不信・恐れ・不安感が心の根底にあり、他人と打ち解けるのが苦手。ゆえに自虐的な言動で人を笑わせることが多い。
かな恵ちゃん→ナルシズムが心の根底にある。振る舞いや言動におバカさんなキャラを見せるが、傍からどう映ろうと、本人のなかでの自分自身に対する自信は意外に大きく、時折見せる感傷的なポエムやアーティストの歌詞の引用などは、自身の魅力のアピールでもある。
中原麻衣さん→人に対するアパシー(apathy)が彼女の心の根底にある。アパシーとナルシズムは往々しにして同居することが多いが、彼女の場合は基本的に、他人へ自身の魅力のアピールすることはなく、単に人に対する無関心的側面が強い性格。
結論としては、相沢さんは、彼女が自虐することを煽ってくれるパートナーでないと笑いは生まれず、かな恵ちゃんは、彼女に合わせてあげる人がいないと自身のキャラがアピールされず、中原さんは、パートナーによってではなく、コーナー・企画などに面白さがないと、ラジオはとてもシュールな雰囲気に陥る。


2009年05月27日(Wed)▲ページの先頭へ
のぞみちゃん
大橋のぞみちゃんはしょうがくせいですが、まったく計算せずにあれができるとは、思わないだろう。そうであれば、普通のしょうがくせいをテレビに映してもああなるはずですが、絶対にそうはならない。映されていることが影響するからで、映されてるのに映されてないように振る舞わねばならない。それは別に、超自我が命じるというわけではなく、自我が自らそうするように反省しているのである。そうすることによって、彼女の中の動物的なものを動かしているといえる。大橋のぞみちゃんの地の部分が出てきている。ここでは、動物的なものを計算によってコントロールしている。こういうのは、エレクトロニカとかを思い浮かべれば、分かってもらえるだろう。というか、最初から、そっちの話をしていればもっと分かりやすかったかもしれない。動ポモは、テクノ等を使ったほうが、同じ論旨をもっとクリアに説明できただろうともいわれる。エレクトロニカ(の源流めいたもの)でいえば、嶺川貴子の「CLOUDY CLOUD CALCULATOR」は、動物的なもの(CLOUDY CLOUD)を計算してる(CALCULATOR)さまがよく伝わってくる。


2009年05月20日(Wed)▲ページの先頭へ
けいおん
けいおんは気に入っておる。まあ、澪(みお)とか。らきすたでは、かがみが好きじゃったから、まあ、当然かもしれんが。ハルヒにはラノベ的、SF的な意匠があったし、らきすたにはオタク的な意匠があったもんじゃが、けいおんは、なんもそういうのがない。きわめて純化されておるといってよいじゃろう。どういうものにかというと、今ここといったものにじゃ。ユートピア論者サミュエル・バトラーのいうエレホン(nowhereを逆さにしたものじゃが)は、no-whereというだけではなく、now-hereのことでもあると、哲何には書かれておる(邦訳143頁)。今ここしかない、それゆえに、どこにもない場所ちゅうのが(それが、日本という場所なのかもしれんが)、けいおんであるといってよいじゃろう。部活ちゅうのも、昔は、私を甲子園に連れて行けとか難儀なことをいわれたもんじゃが、そういう場所はもうないんじゃな。


2009年05月14日(Thu)▲ページの先頭へ
ボート屋
古谷実「ヒミズ」では、ボート屋という仕事が、主人公に与えられている。何もかもが終わったあとで、どう生きていけばよいのか、というテーマの物語において(ヒミズは、大体そのような作品であろう)、鄙びたボート屋という仕事は、その主人公に打ってつけといえる。ボートを貸すだけで、後はじっとしていてよい。ボート一つにつき、一時間八百円は取れるだろうから、それだけでコンビニでレジ打ちしているのと同じだけ儲かる(池は自分のものらしいので、ボートのほか、元手はかかっていない)。そして、毎日が同じ繰り返し。これが、よしもとばななふうの幸福な終末観とはまた違った、終末の風景であることは疑いない。
エウレカについて、「人類が滅亡してもコンビニが通常営業してそうな世界観」(注)だというのは正しい。郊外とは、そのような世界であろう。
(注)エウレカセブンは最低視聴率0.7%の糞アニメ61-187


2009年05月08日(Fri)▲ページの先頭へ
めんどくさい
古谷実「グリーンヒル」は、人類最大の敵はめんどくさいであるといっている。めんどくさいというのは、解析すれば、○○すべきである、という当為がありながら、○○したくないので○○しないという不作為への傾斜であり、それは、○○することへのわずらわしさに由来しているといえるでしょう。部屋の片付けのように自分だけに関わる事柄であればそれでもよいが、問題は、他者に関わるところでも、めんどくさいという感情は否応なく噴出するということであろう。親しい人であればともかく、それほど親しくもない人に対して、施しをしようなどと思うだろうか。応答責任などという、見てしまっただけで責任があるというような律儀な考えは、めんどくさいの前には風前の灯といえる。だからこそ、めんどくさいは人類最大の敵とまでいわれるのであろう。


2009年05月03日(Sun)▲ページの先頭へ
氾濫
エヴァやナデシコのころは、歴史と非歴史の境目あたりにいたのかもしれない。あらゆる記号が投入されていたとはいえ、メタアニメであることは志向されていた。ドン・キホーテが、表象の世界に入っていたにも係わらず、類推から世界を見ていたように、非歴史に入りつつあることを、歴史から見ていたといっていいのかもしれない。しかし、ヒミズのころには、非歴史に入ってしまっており、時代が進んだといっていいのかもしれない。アニメでいえば、98年は、CCさくらやlainが放映され、萌え記号が氾濫しだした年なのだろう(断層があった)。時代を区分するのならば、見田宗介のように、プレ高度成長、高度成長、バブル崩壊まで、金融危機まで、というふうに経済の区分に即していれば批判しにくいですが、その間の断層は(小さいものではないとは思いますが)、作品に即して見ていくしかないのかもしれない。


2009年04月27日(Mon)▲ページの先頭へ
おんなのこ
68年は、象徴界の失調が決定的となった年とされる。その後、一時ではあるものの、現実が露出することになるが、それはおんなのこにも見られ、これは見逃せない。標語ふうにいえば、“おんなのこはおんなのこである”。映画でいえば「都会のアリス」や「ミツバチのささやき」に出てくる少女のかわいさ。しかし、虚構(記号、篠山紀信的なもの)が現実を覆うことで、こうしたリアルなものは退いてしまう。
しかし、あおいちゃんのころになると、リアルなものが再浮上してくる。子役は大成しないというような通念は、この世代には通じない。大きくなっても、リアルで生々しい部分が温存されているからであろう。「苺ましまろ」がなぜ危ういかといえば、萌え記号に覆われているからではなく、この次元に到達しているからではないか。


2009年04月21日(Tue)▲ページの先頭へ
あおいちゃん
しょうがくせいっぽいっていうのは、いる。伊藤かな恵とか(昔の)広橋涼とか、声優でいえばだけど。身近に(?)そういう人がいて、生々しい部分、幼い感じを残しつつ、みたいな。この人が好きな人は、宮崎あおいとかも好きだろうな、みたいな。今なお、人の前であおいちゃんが好きっていうのは、いいづらいものがある。それは、こういう生の部分へのアフェクションは危ういものでありうるからであろう。


2009年04月15日(Wed)▲ページの先頭へ
唐突に
喰霊1巻を見てみたんだけど、1話で虐殺めいたことが行われ、放映時、大分インパクトを与えたみたいです。それで、ガンパレードマーチの6話くらいで、Aパートは平穏だったのに、Bパートで突如主要なキャラを死なせていたのを思い出した。そういう出来事にも係わらず、それからはラブコメになっていた。唐突に人を殺してみるのは、何かあるかも、という不安(?)を抱かせる手法といっていいのかもしれない。ラブコメが突如中断されるかも知れず。物語として見れば、意味はよく分からない。ラブコメが、戦争に侵食されていくのであれば反戦的な色彩を帯びるであろうが、その逆は…。


2009年04月09日(Thu)▲ページの先頭へ
ニートピア
おくりびと(見てないけど)のヒットは、人々が死を見つめようとしていることを示しているらしいです。近年、死を見つめた作品は多い。古井由吉「野川」は、語りえないはずの死を語ろうとしていると、高橋源一郎はいっていた。安倍吉俊「回螺」は、死の瞬間を微分して生じた、死しかない世界を描いている。
いずれ死ぬことことを自覚することで、自分の生を見つめなおそうというようなハイデッガーふうの殊勝な心がけなど、もはやなく、もはや死によって浸された現実には抗えず、語るべきものは遍在する死しか残されていないという状況が窺える。
中原昌也「放っておけば、やがて未来」(「ニートピア2010」所収)は、死んでからのことは誰にも分からず、死体は絶対的な無気力に陥っているだけで、いつか新しい何かが死体から生まれるという奇跡が起こるかもしれないという理由から、死体をいつまでも観察しようとする。中原版「おくりびと」といえるかもしれない。ニートは死んでいるようなもので、それを自分で見ているということかもしれない。


2009年04月03日(Fri)▲ページの先頭へ
小中千昭
神霊狩は、幽体離脱と脳科学を結びつける思わせぶりな世界観の中で、ジュヴナイルふうに語られるストーリーは、唐突に大団円を迎える。処理に、1話しか(!)使っていない。それまでの雰囲気作りにどれだけ尺を使ったかを思えば、拍子抜けせざるを得ない。テクノライズでは、ヤクザがひたすら潰し合うが、技術(テクノロジー)は物語にとって必要ないと、アンサイクロペディアで指摘されている。この点、lainは、世界観に迫ること自体が物語の全てなのでその間に乖離はないし、技術を用いる必然性もあった。1クールというのがよかったのかもしれない。小中千昭は、続き物で2クールだと持たないのだろう。
小中千昭は、物語を語るタイプではないのかもしれない。ホラー出身だからだろうか。ホラーでは、怖いものが迫ってきて、その正体を探るものの、それが分かったからといって救われるとは限らない。探偵小説と似ているという気もする。探偵小説では、犯人が誰かに主眼が置かれているように、小中作品では、世界の成り立ちに迫ることに主眼が置かれている。しかし、探偵小説とは違い、それが分かったからといって、救われるとは限らない。世界の成り立ちが分かったところで、岩倉玲音はまったく救われない。


2009年03月27日(Fri)▲ページの先頭へ
クラナドの最終回には唖然とさせられた。それまで、人生とか言って、曲がりなりにも現実的(?)に進んでいた物語が、一転、エヴァを思わせるメタなものになってしまう。
ゲームはやってないので分からないのですが、どうやら、渚は街と繋がっているらしく、街が不幸だと死に、街が幸せなら、生き延びることが出来る(注1)。第1期は、渚一筋であり、かつ、周りの人を幸せにすることに重きが置かれていて(注2)、このルートだと、渚は死なずに済むはずである。従って、出産のところから、最終話まで飛ぶ。渚が死に汐も死ぬのは、1巡目ということで、それまでの時間と連続していない。こういう悲劇を避けるために、街中が幸せになるように、2巡目をプレーしてくれということらしい(第1期は、この2巡目)。一つの時間が流れているというふうに見えるけれど、それは、いわば叙述トリックということのようです。ある意味、画期的かもしれない。
最終回までは、時間が連続しているとばかり思っていましたし、それで物語としておかしいわけでもない。この点を示したことは、期せずして内在批判となっている(?)。
(注1)渚はネットワークそのものを具象化したものであり(岩倉玲音みたいなもの(?))、ネットワークが良い状態なら生き、悪い状態なら死ぬということらしい。
(注2)だいぶ昔に書いた印象は、当たっていたのかもしれない。
http://fuuko.noblog.net/blog/10479786.html


2009年03月20日(Fri)▲ページの先頭へ
する
宇野常寛「ゼロ年代の想像力」には、人がキャラ化しているとされることについて、「である」ことへの回帰であるとして批判し、「する」ことによる承認を目指すべきである、とする箇所があったと記憶しています。今さら丸山真男なのか、という感じもしますし、あるいは、今だからこそ読むべきなのかもしれませんが…。
しかし、「する」ことに価値があるというのは、疑う余地もあるのではないでしょうか。 近代では、今というのが見失われているというのは指摘されるところです(真木悠介「時間の比較社会学」)。例えば、工場で働く(ことを「する」)のはお金のためであり、工場で働くこと自体は目的ではない。何かのために「する」のであり、「する」こと自体が目的というわけではない。今・ここではないものによって意味づけされていなければ、「する」ことに価値はない。「する」ことは、それ自体としてはちっとも楽しくない。


2009年03月13日(Fri)▲ページの先頭へ
噫無常
小森健太朗「英文学の地下水脈」は、黒岩涙香の原典を探してるんだけど、噫無常と岩窟王を除くと、見事に残らない作品ばかりを翻案してるみたいです。この残っていない作品群から、新しい探偵小説観を構築しようという試み。
どうも、歴史的に見て、女流作家は、中盤のサスペンスから入り、謎と解決というのは後から挿入していったみたい。志村貴子なんかは、中盤のサスペンス(?)だけで作品を成り立たせているのかもしれませんが、もともと女流とはそういうものなのか。「奇妙な英米文学」(アンチオイディプス)といわれるものの系譜に探偵小説があることは疑いなく、探偵小説を、嵐が丘とかアリスとかと併置するような視座は、有用かもしれない。


2009年03月06日(Fri)▲ページの先頭へ
NO!!WAR
三田格のスレがあってもいいじゃないかその2(注1)を、テクノ板で見つけた(社会学板にも、なぜか彼のスレがあります)。
彼(や野田努)は、イラク戦争に対して、NO!!WARという抵抗を試みた。西村大介は、彼らの抵抗には批判的で(注2)、マクロス7(「戦争なんてくだらねぇぜ、それより俺の歌を聴け」)だけが戦争を批判できるんだ、と言っている。
三田格のモストフェイバリットであるフィッシュマンズの「新しい人」は「グルッと見回せば 何にもない」といってるけど、イラク戦争(や凹村戦争)は、そういう中での戦争であろう。世界から意味が消尽しており、テロと同じく、対テロ戦争(といわれる戦争)にも、意味が見当たらない。仮に対象破壊兵器が存在したとしても、イラク戦争をする意味はどこにあったのか。こうした状況下での戦争を批判できるのは、「みんなが夢中になって 暮らしていれば 別に何でもいいのさ」(「幸せ者」)というような思想しかない、というのはその通りかもしれない。
(注1)http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/techno/1130913030
(注2)で、『凹村戦争』は、一つは新海さんを始めとしたセカイ系的なものに対するアンチテーゼなんですが、もう一つに、いわゆる9・11、イラク戦争前後における政治的なもののたかまりに対してのアンチでもあるんです。いちばん大きいのは河出書房新社の『NO!!WAR』なんですけど、アレを僕はダメだと思ったんです。いいけど、ダメっていうか。僕はガイナックスと同時に、1990年代のテクノシーンにもかなり感化されていますから。要するに結局のところは野田努とか三田格とかあそこらへんの人たちが、戦争が起こったときに、レイブ・パーティーやクラブで騒ぐかわりに、戦争を持ち出して一回騒いだだけだって思っています。『現代思想』とかに載った後日談とかを読むと、ああやってよかったなみたいな話に落ち着いちゃって……あれ?それで終わりなのって。
東浩紀『コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル』青土社


2009年02月28日(Sat)▲ページの先頭へ
部屋と下着
どうしてだかは忘れたのですが、「月間星野真里」を買ってみた。ついでだから、「月間鈴木茜」も買ってみた。これは宮下マキという「部屋と下着」という写真集で知られる人が、雇われ仕事で撮ったようです(注)。鈴木茜というのは、着エロの人らしいですが、「部屋と下着」の写真家に撮らせてみようというのは、なかなかの慧眼だといわねばなりません。
女(の子)の部屋というのは、写真にとって未踏の領域であったといっていいのかもしれません。女(の子)が生活しているだけの姿は、女(の子)にしか見えない。一方、着エロは、モロが氾濫する中での反動めいたものであり、外すものを男(の子)に与えているのでしょう。
(注)http://iwata-blog.seesaa.net/article/96149428.html


2009年02月22日(Sun)▲ページの先頭へ
ボランティア
金子郁容「ボランティア」(岩波新書)という本を、柄にも合わず買ったのですが、あとがきだけ先に読んだところ、助けを求められることで、助けたくなるのが人間というものらしいです。そこからつながりが生まれる。標語ふうにいえば、必要とされることが必要、ということなのかもしれない。居場所のない人が、ボランティアをすることで、自分が必要とされる場所に身を置きたがっている。誰からも見捨てられていると思わずに済むために。しかし、そこでのつながりは、あくまで公共圏のものであって(つまり、誰でもいい)、親密圏のものではなく、その場限りのものでしかない。そこで友達や彼女が出来ることはあるのかもしれないですが、それはまた別の話。
ボランティアと援助交際は同じ頃に現れた。朋ちゃんは、♪街中で居る場所なんてどこにもない、と歌っている。援助交際は、居場所のない少女が、男を援助(ボランティア)することで、居場所を見つけようとしているものといえる(男にも居場所はない)。総体として、小室哲哉のしていたことは、援助交際なのかもしれない。
居場所のなさの系譜は、新しい家郷(=核家族)における少女を起点にしているといえ(参考、宮台真司ほか「サブカル神話解体」)、そのヴァリエーションが連綿と続いてるということかもしれない。


2009年02月16日(Mon)▲ページの先頭へ
こころがかんなぎに引用されていたので、積んであった門を読んでみました。三角関係で、略奪愛みたいなものでくっ付いた夫婦の話ですが、こころも、そんなでした。大西巨人は、この夫婦が理想だ、みたいなことをどこかで言っていたのですが、社会から弾き飛ばされて、夫婦だけで世界を作っているわけで、きみとぼくの閉じた(?)世界であるといえるでしょう。世界で一人だけというのは、あまりに寂しいですが、二人だと、生きていけるかもしれない…。植田佳奈はどこかで、ケンシロウとユリアが理想だ(?)といっていましたが、二人だけの世界みたいなのを考えているのかもしれない。
セカイ系は、アスカに拒絶されないエヴァだといわれますが、それでも、人類補完計画(的なもの)は拒絶している。きみとぼくしかいないということは、三人称はないということだし、それと一体化することも拒んでいる。


2009年02月10日(Tue)▲ページの先頭へ
AFTER STORY
その後(AFTER STORY)、二人は末永く幸せに暮らしましたとさ、というのが昔話だけど、エロゲーは、二人の未来になど最高に無関心である。とにかく、処女のヒロインを奪うことさえ出来れば、あとはどうでもいい。この点で、クラナドは、AIRとは違う形で、エロゲーの臨界点といえるかもしれない。ふたりが暮らした、という宮崎アニメ(注)のようなことを、エロゲーでやっている。エロゲのヒロインと、ずっと暮らすなんて、考えられるのだろうか。よく分からない。渚みたいな女(の子)が、この世に存在するとは思えない。奇跡など、なおさらありえない。
東浩紀ふうにいえば、「父親になれない」という課題を突きつけられたゲーム作家が、「父親になりたい」と思い、作品を構想したところ、体の弱いヒロインは死んでしまい、娘も死んでしまう、というようなのしか思いつかず、そのままだとあんまりなので、窮余の策として、奇跡を起こしてみた、ということなのかもしれない。結局、奇跡なしに、父になどなれない。父とは、奇跡なのである。
ヨブ記は、当初、やられっぱなしだったが、それではあんまりだということで、救いのエピソードを加えたらしい。柄谷は、同じ嫁が帰ってこないのに、喜ぶのはおかしいといっていた。クラナドでは、同じ嫁(と娘)が帰ってくるのですが、それはそれで…。
(注)ハウルは、クラナドと同じ04年に発表されている。


2009年02月04日(Wed)▲ページの先頭へ
あちらの世界
声優ラジオとかにのめり込んでいる人は、そこにある擬似的な親密さみたいなのに惹かれるからかもしれません。百合好きと、声優好きは、それぞれ単体でも危ういのですが、揃うとほとんどの人があちらの世界の住人になってしまうことが知られています。声だけというのは、とても親密な感じがしますし、囁き声などになるとなおさらです。そしてそれは、聞き手と話し手の間のみならず、話し手同士にも親密なものを感じさせる。こういうのが昂じると、声優好きから入って、百合好きになってしまう。こうなると、もう戻って来れない。
囁き声は、親密さを感じさせる。能登麻美子が、あれほど演技に難があるにもかかわらず重用されるのは、その辺によるのだろう。


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カレンダ
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