風子思考集成/一覧

fuukoについて




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2009年01月29日(Thu)▲ページの先頭へ
ネタ
ストパンとギアスR2が、去年の9月に終わったわけですが、このふたつはネタアニメを、極めていたといっていいと思う。ギアスなんて、ネタをつないだだけじゃないのかという感じだったし、ストパンは、ネタだけど、それと萌えを不可分な形で融合させており、実際、あれ以上の、萌え/ネタアニメというのは、ちょっと想像できない。00年代のメインストリームは、萌えと2ちゃんねる経由のネタにあったといっていいかもしれないですが、この二つを同時に臨界まで持っていくことで、終わらせたといっていいくらいの過激さはあったと思う。ストパンの先を行くアニメというのは、少し想像できない。ギアスは、セカイ系といわれる思考の中を動ける限り動くことで、それを自壊させた。どこに出たのかは、分からないけど。何かが終わったという感が漂っていることは否めない。


2009年01月23日(Fri)▲ページの先頭へ
存在が浮いている
沢城みゆきと福井裕佳梨は似てると思う。いつも微妙に浮いてるところ。ふくうち ◆.YUKAuj4c.は、沢城が浮いているのは、技術的なところから入っているからだといっていますが、沢城は、所属劇団の人たちと喋ってるときでさえ、声は浮いている(注1)ので、おそらく存在が浮いている。植田佳奈が、本物の(?)天然はゆかりんだけ、と性悪ぶりを発揮していっていたけど、この浮き方も、多分それ。「私が実る木の下で」は、通しで聴くと、かなり(3曲目くらいから)気分が悪くなることは請け合いです。ポニョとか歌ってる姿は、幸せそうですが(注2)。
(注1)http://dangofan.seesaa.net/article/112693605.html
(注2)http://jp.youtube.com/watch?v=9LSdEGNu9dk&feature=related


2009年01月17日(Sat)▲ページの先頭へ
人間の条件
本田透とか鶴見済とかは、人間の条件から遠く離れようとしている。超人というのも、素朴に考えればそういうものかもしれない。一人で、森の中で動物たちと暮らすというのは、複数性(人間の条件)から外れている。意味や価値は一人で作り出すものだ。それまでの哲学には、意味も価値もなかった(「ニーチェと哲学」)。
本田透や鶴見済は、現実/虚構/身体(身体は、もう一つの、人間の条件であろう。)を組み替えることで、人間であることを克服しようとした人といえよう。それぞれ、その時代のリミットをなす思考である。
鶴見済は、現実からいつでも(楽に?)離れられる方法を用意することで、現実を対自的に見る(「完全自殺マニュアル」)。そして、そうして見られた現実の苦しさを、クスリを用い、身体に訴えることで逃れようとする(「人格改造マニュアル」)。本田透は、あまりに殺伐とした現実を前に、「自殺するなら、引きこもれ」といい、虚構に引きこもる。身体の充足には、バーチャルな彼女を用いる(「萌える男」)。


2009年01月11日(Sun)▲ページの先頭へ
恋の理論
しかしエンマは、自分の正しいと信じている理論通りに恋を感じようとした。(ボヴァリー夫人・フローベルより)
ヘテロセクシャル・岡崎京子より、孫引き。完璧な引用といっていいでしょう。一行でボヴァリー夫人を要約すれば、ここになるのではないでしょうか。19世紀小説を一行で要約しているといっていいかも知れない。
この「恋の理論」は、どこから来ているかはわかりませんが、近代の産物といっていいのかもしれません。だから、ポストモダンになれば、維持できないのではないでしょうか。
本田透は、バーチャルの時代(注)の旗手であったことは間違いないでしょう。彼の思想は、「彼女はバーチャルでいい」というものです。彼女はいらないといっているわけではない。リアルの女たちは、もはや「恋の理論」からは逸脱しており、そういうのはバーチャルの世界にしかいない。しかし、バーチャルの世界には、人肌の温もりはなく、リアリティへの飢餓感は拭えない。
(注)見田宗介が「虚構の時代」の次の時代を命名した。朝日新聞、2008年12月31日付。


2009年01月05日(Mon)▲ページの先頭へ
中古
《もともと処女性とは後生大事にいつまでも保持しつづけるわけにはいかないものであり、したがってそれは、失われ無くなることによって、これまで処女だったことの証となるはずのものなのだ。》(フォークナー「アブサロム、アブサロム!」篠田一士訳)
かんなぎといえば、中古騒動ですが、かんなぎDVD第1巻に、中古というシールが貼られているところなど、哀しいものでした。しかし、フォークナーのいう通り、処女性とは、非処女によって、遡及的に見出されるものでしかない。処女には、処女性は分からないし、もちろん、男にも分からない。
ひとたび線を越えると、もはや引き返せないのであり、中古という言葉の厳粛な響きはそのことを表している。つまり、一度でも使えば、中古ということになってしまう。中古だから価値がないというようなことはいえないが。
非処女は、もはや処女とは、質的に異なった存在であろう。非処女は、もはや、処女と同じように思考することはできない。処女も、非処女のようには、思考できない。従って、その線はどういうものか、処女にも非処女にも、分からない。
そして、ある線を越えたものは、その線の越え方になど、もはや興味を持たない。非処女は、処女には戻れないのだから、そんなことを考えても意味がないのである。むろん、線を越えることが、常に悪いわけではない。線を越えなければ、先には進めない。越えて行かなければ、朽ちていくだけという線もあるのだ。


2008年12月30日(Tue)▲ページの先頭へ
一人
夏目友人帳の1巻を見ました。そんなにいいとは思わなかったけど、かみちゅとか蟲師の流れなのだと思います。これらは、共同幻想みたいなのを現代に甦らせる試みと整理できるのでしょうか。エピソードは今を反映しているというか、1話は、ずっと一人ぼっちだった妖怪が、話しかけられて嬉しくて、呼ばれるのをずっと待っていた、というもので、2話は、一人ぼっちのように見える神様が、たった一人の信者と対のような関係になっていたというものでした。「一人は苦しい」いうセリフがありますが、そういうのが並んでいるといえる。「早く人間になりたい」といった妖怪はいても、かって、「一人は苦しい」といった妖怪がいたでしょうか。現在は、人と人の距離が遠くなり(昔は近かったので、「一人は苦しい」とは、感じられなかったのかもしれない。)孤立してしまいがちで、その反映として、こういう妖怪が出てくることになるのでしょう。


2008年12月25日(Thu)▲ページの先頭へ
可愛い可愛い
忘年会に行ってきたんですが、女のほうが、オタクみたいなの多かった気がする。 声優志望(その他も志望してたけど)だった人もいたよ(!)。すげー。僕は、声優しか若いのを知らないから、(ロリ系統のならちょっと知ってるけど)少し尊敬したね。声優ならやっていける顔だった。
佳奈さま(に似た女)が、男には5種類いる(詳細は忘れた。)という所説を述べた後、じゃあ女はどうなんだ、という話になって、かわいいとかわいくないの2種類いると述べられた(きつい!)。じゃあこの中ではどうなんだ、と突っ込まれ、樹音(に似た女)が私は…、みたいなことをぽろっといったけれど、あなたはかわいい、その横の沢城(に似た女)に対しても、余裕で(!)かわいい認定をして、大阪弁の人(本当に色っぽい語り方をする。)と比呂美(に似た女)は美人であるとして、かわいいの範疇からは除いた上で、ここにはかわいい女しかいませんでした、と巧くまとめられた。
女はかわいいとかわいくないで分かれるという説は、ほとんど即時に破棄され、かわいい系と美人系に分かれるという考えに変わったようです。これは卓見かもしれない。そして、逃げ道にもなる。誰からも美しさを見出すことができるというわけではないけれども、誰にでもそれなりにかわいいところを見出すことはできるかもしれない。井上麻s里奈は、「図書館戦争ラジオで自分より容姿の劣る沢城みゆきに「可愛い可愛い」を連発する。沢城のテンションが下がってもやめない」(注)。しかし、沢城にもかわいいところはあると思うのです。
(注)http://notorious2.blog121.fc2.com/blog-entry-665.html


2008年12月20日(Sat)▲ページの先頭へ
友敵
政治は、友敵で分かれるらしい。カヲル君は、友だちだけど敵であって、友敵を兼ねている。友だちだけど敵なので、殺さなければならない。こういうのが、腐女子の好きなシュチエーションなのは周知の通りであり、ガンダムSEEDは、これだけで成り立たせたといっていい。1stガンダムも、善悪というのはなくて、友敵で争っているといってよく、WやSEEDは、意外と(?)正統なのかもしれない。つまり、もともと腐女子的。


2008年12月14日(Sun)▲ページの先頭へ
幼なじみ
男の人は、生まれ変わっても、長年連れ添った妻とまた一緒になりたいと思う人が多いけれども、逆に、女の人は、夫とまた一緒になりたいと思わない人が多いらしい。これは、どういう幻想を抱くかが、性によって異なるからではないか。男の子は、幼なじみが好きで、女の子は、白馬の王子さまが好き。幼なじみは、長く連れ添っているというだけで運命を感じてしまうというものだから、長く連れ添った妻も、まあ、幼なじみのようなもの。しかし、長く連れ添ったというだけでは、白馬の王子さまとはいえない(注)。
かんなぎでは、沢城みゆきが、いいと思います。ほとんど皆そういっている。幼なじみですが、彼女以外ならそうは解釈しないだろうというような声の出し方をしているのではないでしょうか。
(注)女は関係性を求めており、夫はそれに答えていない、と答えてもよく、その方が綺麗かもしれない。


2008年12月08日(Mon)▲ページの先頭へ
日焼け
黒人なら満遍なく黒いのでしょうが、黄色人種で色黒の人は、元は黄色なのだから、服を着ている部分はそんなに焼けていないはず。スク水の魅力は、そういう日焼けしているところとしていないところがくっきり分かれるところにも、あるのかもしれない。もっとも、日焼けしていないところを見せるとエロマンガになってしまう…。例えば、わんぱく「Juvenile A」(「つまさきだちおんなのこ」所収)。庵野も、日焼けをネタにしていますが(後掲512)、ナディアでは黒人のヒロインをやっているので、そのつながりで出てきたのかもしれない。

正直、庵野さんにアニメ界に戻ってきてほしいよね
512 :510 :04/01/18 03:43 ID:a/jvM19v
同人誌・朝鮮飴
チャイナさんの過失(ミス) By H.ANNO
久しぶりに海から帰ってきた女。
久しぶりのH。
しかし日焼けが痛くて下になれない。
さらに、上にもなれない。
しかし、めげずに焼けずに残っていた3箇所でやる。
「やっぱハダカで焼かなくて良かった。」
「みんなも気をつけるよろし。」
END
4ページ白黒。
エロが主体というより、ちょっとギャグっぽい。
年代はわからんが貞本が同じ本でナディアのエロ?マンガを
描いていることからナディア発表以後ということになる。


2008年12月02日(Tue)▲ページの先頭へ
ロリコン
ロリコンは少女に母性を求めている、つまり、ロリコン・イコール・マザコンなのだ、というようなことをいう人(宇野とか更科とか)がいるけど、これはどうなのかな。高橋留美子を、残酷な母が支配するものとして読んでゆくのですが、父がいないから、母なのかといえば必ずしもそうではない。父系制でも母系制でもない、双系制というのもあり、古代日本はそうだった(注)。別に、古代のことを持ち出す必要もないとは思いますが、妹が好きなのとマザコンは、イコールではない。
近代的自我は、キリスト教を与件としているので、我われには持ち得ないといわれています。日本人の自我は主客合一であるとまでいうと、さすがにいい過ぎでしょうが、もしそうだとしても、そうした自我を母という言葉で言い表すのは論理的におかしい。古事記とかを読んでも、別に母性に溢れてるというわけではなく、兄妹の愛のほうがむしろ溢れているのではないかと思うのですが。
(注)柄谷行人「双系制をめぐって」(「<戦前>の思考」所収)


2008年11月26日(Wed)▲ページの先頭へ
白雪姫
モンスターペアレントが、白雪姫が25人いる劇をやらせたらしいですが、いったいどういう劇だったのでしょうか。オリジナルでなければ、白雪姫のセリフを25人で合唱するような形にならざるを得ません。これはラディカルといっていいのではないでしょうか。昔から、一人の役は一人が演じるというのが暗黙の了解でしたが、疑うことは出来る。またの日の知華では、一人の役を、場面ごとに4人で演じていましたが、同じ場面において、一人の役を何人かでやれば、この白雪姫みたいな劇になるでしょう。分裂してゆく自己をビジュアル化しているといっていいのではないでしょうか。新たな主体観といえるかもしれない。まじめにセリフを読んでいない白雪姫もいたりするでしょうし、全然違うセリフを言う白雪姫もいたでしょう。いろんな表情の白雪姫が同時に現れる。おそらく、こういう劇では、木でもやったほうが目立ったでしょう。


2008年11月20日(Thu)▲ページの先頭へ
やればできる子
ソウルイーターの2話で、名塚佳織は、ブラックスターは「ほんとはやればできる子なの」といっている。いわれて嬉しい人がいるので、こういう台詞が出てくると思うのですが、こんなことをいわれて何が嬉しいのか、分からない。願望含みであり、その願望というのも、自意識過剰だけど、ほんとは実力があり、しかも、かわいい女の子がそれを分かってくれていて、その女の子の導きで、実力も開花し、精神的にも成長してゆく、というもの。現実は、実力などどこにもなく、女の子の影さえない暗い部屋で、自意識だけが膨張してゆくだけ。
ガンガンは、小学生くらいの男の子に向けているという建前だろうから、そのくらいの子供であれば、母親依存的な心理も分からなくはない。インデックスで顕著に見られるようなラノベ風の青臭い主張をしてもよい。しかし、諺にある通り、「青臭いのが許されるのは中二まで」であろう。
男の子は、三人が三人とも、自信過剰。女の子の応対を見ると、マカは姉御肌、椿は母性愛といえるのだろうか。ソウルイーターとブラックスターは似たもの同士だと思いますが、デスザキッドは名家の跡取りで、姉妹よりも上に立っているといえそうです。御主人様に姉は服従し、小悪魔的な妹は手玉に取るというのは、これが私の御主人様みたいですが、これも男の子の願望なんでしょう。


2008年11月14日(Fri)▲ページの先頭へ
I’m proud
援交とは何だったのか、それが問題なのかもしれません。制服少女の選択の文庫付録で、もと援交少女は、援交は売春になってしまい、かっこ悪くなったといっていますが、では、援交と売春を分かつものとは…。おそらくは、そこには、九十年代固有のコミュニケーションというものがあって、朋ちゃんがI’m proudと思えたように、援交少女もI’m proudと思えたのでしょう。阿部和重は、グランド・フィナーレで、ロリの男ともと彼女(だったか?)が交わしている長い対話は、九十年代を回顧するための予行的なもの(?)であると、対談集で話していましたが、九十年代のコミュニケーションのありようは探ってみると面白いかもしれません。小室の詞は、この時代の倫理を語っていたといっていいのでしょうが(皮肉ではなく)、浜崎的なものによって更新されてしまい、後は…。


2008年11月08日(Sat)▲ページの先頭へ
大きなお友達
紅で、7歳のようじょが説教するのは、白けるどころか、説教なんて子供がするものなんだよ。大人が、説教なんかしても全く説得力がない。罵倒30分は妹だからこそ聞いていられる。しゅごキャラが答えだと思えれば、それがゴールだ。これは、小さなお友達にとってもそうだし、大きなお友達にとってもそう。なりたい自分というのは、今の自分のとっての夢のことだろう。大きなお友達は、小さなお友達が、壊されそうになりながらも夢を抱いているのを見て、心を満たすものなのです。大きなお友達にとって、なりたい自分になるなんてギャグでさえない。むしろ、彼らは、小さなお友達になる。なりたい自分になりたい自分になる。卵に帰るといってもよい。女の子向けアニメを見ているオタクが気持ち悪がられるのは、こうした小さなお友達に生成するというメカニズムが透けて見えるからではあるまいか。


2008年11月02日(Sun)▲ページの先頭へ
ざんげちゃん
かんなぎは、アイドルで行くみたいだけど(OPは演出ではなかった)、神様なのにアイドルになるというのは、奇異ではある。七十年代から八十年代にかけて、パルコと同じく、アイドルには、擬似的超越性があった。一人が大勢のまなざしを集めるというだけで、別格感が醸し出されるというもの。なぎとしては、神木がない今、神様と認められるには、擬似的であれ超越性がなければならないため、アイドルになろうというわけです。アイドルの存立構造が知れ渡ったため、誰もがアイドルのような振る舞いをできるようになったのかもしれない。テレビを作る過程を見せるテレビを、純粋テレビというそうですが、今のアイドルは、純粋アイドルとでもいえるだろう。普通の人をプロデュースしてゆく。ランカ・リーとかも、そういう感じだと思う。それにしても、ざんげちゃんを花澤香菜がやってるのは、ドンピシャだとしかいいようがない。彼女にはざんげの値打ちもないのかもしれませんが。


2008年10月28日(Tue)▲ページの先頭へ
ニュースの原稿
アイドルというのは、テレビを見ている人々の欲望を具現化したものなわけですが、ビジュアルだけ飾られているというわけではなく、物語化されて呈示されます。この物語化を行うのが、作詞家(やプロデューサー)であろう。従って、まなざしを意識しつつ、人の言葉をそのまま歌って、虚像を形作るわけですが、晒されているのは生身の身体なので、例えば、ツベルクリン注射の跡の生々しさが、エロスを感じさせたりします。従って、そのありようは、演歌歌手と変わらないわけですが(秋元康は、「川の流れのように」を作詞した。)アイドルは、ほとんどありえないほどの虚構を歌い、それゆえに棒読みでも構わない(演歌のように情感たっぷりだと、かえっておかしい)。
女子アナの魅力は、彼女らがニュースを棒読みする存在であることに由来していると思われる。アイドルの歌に当たるのが、ニュースの原稿といえる。棒読みと彼女らが行うコミュニケーションとの落差が、人をひきつけるのだ。女子アナのアイドル化を嘆く向きもあるが、どちらも他人の言葉を読む存在であり、その近さを見逃すべきではない。


2008年10月22日(Wed)▲ページの先頭へ
いずみちゃむ
丸岡いずみ(愛称、いずみちゃむ)は、ストレイトニュース(11時半)、おもいッきりイイ!!テレビ(Newsエスプレッソ)、ミヤネ屋(全国ニュースコーナー)と、日本テレビ系の昼のニュースを渡り歩き、3度同じ原稿を読んでいますが、読むだけというわけではなく、おもいッきりでは、みのもんたに問いを振って、相変わらずの演説を誘ったり、ミヤネ屋では、ニュース後の十数秒、宮根にいじられたりしている(ストレイトニュースは読むだけ)。みのの演説を、全て受け入れるでもなく、かといって拒絶するわけでもなく、受け流し、宮根に対しても、蝶のように舞い蜂のように刺す態度で答えている(注)。こうした距離感は、素晴らしい。古舘の横に座っている女などは、古舘のどうしょもない話に一つひとつ深刻そうに頷いていますが、ああいうのとは違う(東大出だからかもしれませんが、佐々木恭子は、同じ頷くにせよ、堂に入ったものです)。夜6時台のニュースに出て来る女性キャスターのような重みはないですが、《ビジュアル上の若々しさ》(Wiki)とコミュニケーションスキルの交わったところに、独特の軽みが生まれているといえるのでしょう。
(注)褒めすぎかもしれない。コミュニケーションスキルがないので、その分析も出来ない。


2008年10月16日(Thu)▲ページの先頭へ
普通のアニメ
ヤマカンは、普通のアニメを作りたいらしい。「普通の」ということで、ギミックに頼る京アニを批判しているようです。ギミックというのもヤマカン用語で、メタ/ベタ/ネタのうちでいえば、ネタのことであり、「普通の」は、ベタのことであろう。
らきすたは、メタアニメが不可能であることを示しているらしいですし、時かけなんかも、メタを捨てて、固有時をベタに享受することを選んでいるともいえるだろう。時代は、ベタへの回帰、つまり、ヤマカンのものになろうとしているのでしょうか。


2008年10月10日(Fri)▲ページの先頭へ
ランカ・リー
エヴァでは、敵は、他者そのもの(使徒)であり、その殲滅後に、あらゆる他者性の消去(人類補完計画)が企まれている。マクロスフロンティアでは、他者の群れ(バジュラ)と人類の群れの真ん中に、ランカ(半分人で、半分蟲)という少女を置いて、対話らしきものが行われ、共存することになる。ここでも人類補完が企まれており、それには、エヴァとは違い他者(バジュラ)をも利用する。バジュラを犠牲にしてもか、という言葉は、こうしたコンテクストから理解できる。バジュラ自体が、補完された人類に近いともいえる。それに対して、複数性を理解させるにはどうしたらよいかというのが問いで、歌が複数あることから、主体の複数性を理解したようである。歌姫二人が、似たような境遇なのは、こうした事情によるのだろう。(注)
(注)ランカ・リーアンチスレに書き込んだもの(例えば、38-18)を、推敲した。


2008年10月05日(Sun)▲ページの先頭へ
これはパンツではない
「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」は、現代美術でいえば、ウォーホルというより(注)、まず、「これはパイプではない」が想起される。パイプらしきものの下に「これはパイプではない」と書かれているやつ。
キャラクターは、萌え記号の総和であるということですが、そうだとすると、まなざしは拡散してしまうのに対して、「これはパンツではない」ということで、パンツ(のようなもの)にまなざしを集めることに成功している。つまり、まなざしのコントロール。
規制によってパンツは映してはならないとされることを逆手にとり、パンツ(のようなもの)をパンツではないということで、パンツ(のようなもの)を映すことを正当化すると同時に、パンツ(のようなもの)にまなざしを集めた上で、絶えずパンツ(のようなもの)を画面に映し出すことで、催眠的なものに仕立て上げている。また、「恥ずかしくない」というのだから、このまなざしも恥ずかしくない(はずだ)。このように、規制とまなざしと言葉と物が、巧みに配置されている。
(注)ストライクウィッチーズの「抽象化されたパンツでは無い何か」が面白い
http://d.hatena.ne.jp/karimikarimi/20080826/1219715014


2008年09月30日(Tue)▲ページの先頭へ
コカントク
「守りたいから私は飛ぶ!!パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」というコピー(注)は、作品のコンセプトを表しているといえそうですが、一見無意味な「守りたいから私は飛ぶ!!」という前半部にも、大きな意味があると思われる。この作品は、パンチラというレベルではなく、パンモロです。パンチラであれば、必ずしも空を飛ばなくてもいいけれども、パンモロを、空中以外で自然なものとして見せるのは難しい。地上において長い時間のパンモロを撮ろうとすれば、スカートの下から撮るしかないと思いますが、それには犯罪の匂いがする。足にプロペラのようなものを付けていて、それで飛んでいるようですが、このプロペラがないと、足から(股間を)見るというアングルに不自然さが生まれてしまう。少女の股間へのまなざしだけで作品を成り立たせていて、潔いし(ガイナックスのお偉方によるコカントクという命名は本質を突いている)、それが自然なもの、見てよいものであるように映るよう全力で工夫されている。
(注)2ちゃんねるのテンプレの表記。どうやら、「守りたいから私は飛ぶ!!」が本来のキャッチコピー、「パンツじゃないから」はキャンペーンコピーのようです。


2008年09月27日(Sat)▲ページの先頭へ
岬ちゃん
「ある子供」を見た。大澤真幸「不可能性の時代」(岩波新書)で、ドキュメンタリーふうに撮られた物語にまったく救いはないが、フィクションであることを示すため、ラストに救いを入れてみたという監督の言葉が紹介されており、どんな舐めた感じなのか、楽しみだったのですが、フレームは完璧なものでした。そのラストは、どうしょもない男が、彼の子を生んだ女に、頭を子供のように撫でられ、泣いてしまうというもので、タイトルの由来にもなっているようです。これは、母をイメージさせる。愛されなかった子を、母親のように、撫でてあげる、これが救いということのようです。
サッド・ヴァケイションでも、ラスト間近で、宮崎あおいが、中国人に追われて怯える青年の頭を膝枕の上で撫でていますが、母性の目覚めというようなものなのでしょうか。キャリア的にも意味のあるシーンなのかもしれません。
結局のところ、ソーニャがいなければ、あるいは、岬ちゃんでも、牧野由依でもいいのですが、救いはない。富野とともに、女が母をやめたとき、全ての悪が始まったというべきなのでしょう(ブレンパワードにそういう台詞があった)。


2008年09月20日(Sat)▲ページの先頭へ
マキノユイ。
初音ミク in スケッチブックを持ったまま(注)をうpした人は、こういっている。《ミクがだれております。ちょっとキャパオーバー気味だったようです。------牧野由依さん、こんな素敵な曲を出していたと最近知って・・・もう作るしかないと!----由依さんの甘くぬっくい声には到底及ばないけど、ミクはミクなりに、です》。
(注)http://www.nicovideo.jp/watch/sm1443932
牧野由依の2ndアルバム、マキノユイ。を聞いてみたのですが、2曲目に、マーマレードという小泉今日子のKYO→というファンから公募した曲を歌うという企画アルバムからのカバーが歌われていた。標準的なアイドル史によると、小泉今日子は、なんてったってアイドルで、アイドルは100%幻想だということをぶっちゃけてしまい、虚構の時代の終わりを告げた人(の一人)です。ファンから公募した歌詞を歌うというのも、阿久悠やら秋元康やらが書いたものを歌うはずの存在であったアイドルのありようのちょっとした解体でしょうが、ミクに至っては、自由に自分の曲を歌わせられるわけで、KYO→は、その真ん中にあるといえるかもしれない。マーマレードについていえば、「甘くぬっくい」(この語をググると、(注)のページがトップに出てくる。)というのがぴったりで、オリジナルも聞いてみたのですが、聞き比べてみれば、いかに甘く歌われているかが分かります。


2008年09月13日(Sat)▲ページの先頭へ
世界平和
《私の胸が、あとちょっとだけ大きかったら、私の目が、あとちょっとだけ大きかったら、私の鼻が、あとちょっとだけ高かったら、この世界も少し、変わるかも知れない。世界平和》。
大塚美容形成外科のCMですが、このCMについて考えるに、世界は確定記述の束であるといえるでしょう。太陽は赤いとか、地球は丸いとか、そういう記述の束が世界です。整形を通じて、私の胸や目や鼻を、大きくしたり、高くしたりすることで、私という記述の束の一つを、別のものに置換する。そうすることで、世界という記述の束の一つも、別のものに置換されたことになります。つまり、「この世界も少し、変わる」。
そして、それは「世界平和」である。しかし、ここには人を躓かせるものがあります。なぜ、世界という記述の束の一つを別のものに置換することが、「世界平和」なのでしょうか。他の記述が全て同じだとして、例えば、私の胸が、あとちょっとだけ大きな世界は、今のままの胸の世界よりも、平和だとすれば、どうしてでしょうか。ここでは、私という記述の束の一つが置換されただけで、私の外の世界は全く変わっていません。つまり、変わったのは私であり、私の外の世界ではない。にもかかわらず、このCMは「世界平和」といっているのです。
おそらく、私の胸が、あとちょっとだけ大きくなった世界では、他者のまなざしがちょっとだけ変わってくるのでしょう。そのことで、私は、自分に自信が持てるようになり、自分を愛せるようになる。世界を愛するためには、自分を愛せなければなりません。イプセンは、「かつて一人を愛したことのない者は、全人類を愛することは不可能だ」といっていますが、ミサトさんがいっているように、うろ覚えですが、自分を愛せないものが一人を愛することはできないでしょう。つまり、自分を愛することができて初めて、一人を愛し、そして全人類を愛しうるのです。こうして、私たちは「世界平和」まで辿りついた。


2008年09月08日(Mon)▲ページの先頭へ
ルルーシュ
ルルーシュは、キャラクター概念の臨界点なのでしょうか。前に、そう書いてみたのですが(書いてみただけで意味が分からないので、消しておきました。)とりあえず人間とキャラクターの概念を比べてみよう(東浩紀+桜坂洋「キャラクターズ」を引き写した)。
近代文学の人物(=人間)は、ブヴァールとぺキシュ(あらかじめ答えておくと、一行も読んでません。)のように、シニフィアン→シニフィエ→シニフィアン→…というような往還を繰り返すのでしょうけど(これを、われわれが1冊も読んでいないので正しく理解しているとはいえないであろう社会学の知見で、再帰性といい、これにより内面が生まれる。人間の誕生である)、繰り返すうちに、自分は(シニフィエなき)シニフィアンでしかないことが分かるのであり、何者でもない、もはやボヴァリー夫人はボヴァリー夫人でなく、ジュリアン・ソレルはジュリアン・ソレルでもなくなった時点で幕が下りる。
日本の近代文学は、横文字を受容する中で、私小説という焦点に向かう。私小説は、純文学とも呼ばれ、濾過されて、純化され、私だけが残ることになる。あらかじめ、近代小説が終わった時点に、私は立っている。つまり、私は(シニフィエなき)シニフィアンでしかない。私たちは、意味を持たない。ゆえに、物語はない、あるのは、セックスと死だけである。これに対し、キャラクターは、確定記述の束なので、意味がないと動かない。柄谷ふうに言えば、意味がないか、意味しかない。
仮面の告白は、内面の告白としての近代文学を揶揄したタイトルであろう。しかし、三島ほどの人になると、仮面が皮膚と癒着して剥がせないところまできている(と、文庫解説はいっている)。ルルーシュは、告白などはしないが、仮面を被ることで、アイデンティティに揺らぎが出てくる。仮面を外したルルーシュは、ナナリーの兄であり、皇族であり、学生である。ナナリーに心配させたくないし、皇族だと分かれば日本人は協力しないだろうし、学生生活も続けたい、だから仮面を被ろう。ゼロになろう。しかし、ルルーシュ=ゼロということがいろんな人にバレて、ナナリーの兄でも、皇族でも、学生でもない、何者でもなくなってしまう(R2は見てないですが、まあいいでしょう)。確定記述が、すべてあぼーんしてしまう。これは、キャラクター概念の臨界といえるのではないか。
しかし、キャラクターが確定記述の束というときは、キャラの絵を念等にしてるのでしょう。カマキリのような外見が変わらない限り、ルルーシュはルルーシュですから、キャラクター概念の臨界をいうことはないのかもしれない。
むしろ、キャラを被ってるやつらはKYで嫌われる。なぜなら、キャラとしてしか付き合わないから、コミュニケーションが損なわれるからだ。こういう言い方で、キャラクターという概念を使うならば、その臨界ではあるかもしれません。この手の論者にいわせれば、キャラであることの不毛さをストーリー的破綻も厭わずに描き切った、谷口ばんざい、ということになるのでしょう。


2008年09月01日(Mon)▲ページの先頭へ
萌えカス
犬とか子供とかは、動物社会学の知見によると、幼児図式といって、かわいく見えるように出来ているらしい。かわいく思わせることで、飼い主だとか親だとかに、保護するように仕向ける。かわいいという感情は、動物にもあるということなのでしょう。真木悠介(=見田宗介)「自我の起原」は、大意として、犬や子供は、かわいいと思わせることで、飼い主や親を、操っているということになるのかもしれないが、それでもいいじゃないか、それでかわいいと思う側が、幸せに感じるのなら、といっている。
現在のかわいいは、かわいいと思えるものを、自ら作って、それをかわいいと思うことで、幸せを感じるというものでしょう。進んで動物になることで、幸せを感じる。
統治の側から見れば、かわいいものを与えておくことで、幸せを感じさせ(フィールグッド)、不満を抑えるというのが考えられる。四方田犬彦「「かわいい」論」では、ナチスの収容所にかわいい絵が貼られていたことを、終盤で持ち出している(らしい)のですが、しょせんぼくらは「萌えカス」(注)だから。
(注)「ぼくらはみんな“萌えカス”になってしまったのか!?」(中原昌也ほか「嫌オタク流」、太田出版)


2008年08月27日(Wed)▲ページの先頭へ
アルトきゅん
マクロスFの20話で、ランカはごねて殴られ、歌うんだけど、厭々歌っていたので、バジュラを逆に勢いづけた。これは、愛おぼでの、ミンメイの殴られて、反省して、歌って収束、というエピソードの反復のように思わせながら、ずらしているし、ランカが、いかに酷いかというのを、見事に印象付けている。
アルトきゅんのあまりの存在感のなさは、ゲームの視点キャラクターを思わせるものでしたが、美少女ゲームでは、薄弱ということはあっても、ランカのようなスイーツ系の、腐った思考で出来ているキャラが攻略対象として出てくることはないでしょう。アンチスレがいうように、いわゆる腐ゲーに似ている。ケータイ小説でも、相手の男に存在感はない。この腐のオーラが、マクロスFを覆っているのである。ガンダムも、腐に飲み込まれ、SEED,00など目も当てられない。
P.S. この文は、アンチスレにあわせてるけど、ぼくは、ランカは好きだよ。マクロスFも、悪くはないと思うし、20話から、唐突にサヴァイヴァルだけど、これも、平和ボケへの冷や水とも受け取れなくはない。ゼロ年代のガンダム(やコードギアス)は、擁護できないけどね。腐が全てを覆っていくのは、時代の必然だよ。


2008年08月24日(Sun)▲ページの先頭へ
後藤さん01
サッドヴァケイションを見たのですが、動きの中間をカットするという演出がされてる(例えば、冷蔵庫から帰ってこようとして、帰ってくるのですが、その間がちょっとだけカットされている)。似たようなもので、ストライクウィッチーズの7話を、お茶の間でも見れるように、健全一如と称して、パンツ(のようなもの)シーンなどを5分くらいカットとしたものが、ニコニコにうpされていた(注)。もう見れませんが。ほとんど暴力的なカットを施すことで、作品のありようを照射しているといえなくもない。
いわゆるMADでは、大概、映像とサウンドのどちらかを固定している(気がする)。映像に違う音をつけたり、音に違う映像をつけたり。面白かったのは、公共広告機構の虐待のCMの、声のところに、後藤沙緒里の「何てことしてくれたんだよ」などの病的な言葉を代入したやつで、こうして出来た音に、(CMの映像を追い出して、)信号機の写真を当てた「後藤さん01」が作られていた。02,03も作ろうと思えば作れるということでしょう。デュラスとか、そういうのを思わせるアプローチですね。見たことはないですが。
(注)http://www.nicovideo.jp/watch/sm4326986


2008年08月19日(Tue)▲ページの先頭へ
ライオン
マクロスF新OP「ライオン」は、生き残りたいと連呼してるんだけど、吉野は、舞HiMEとか、舞乙とかで、日常からサヴァイヴァルへ、というのをやってた。Fは、どうやればこの先、サヴァイヴァルとして納得のいくものになるか分からない。思い出せば、ステルヴィアも、2ちゃんねる情報だから、定かではないけど、当初は、殺し合いをさせる予定だったらしい。冒頭あたりで、あんなに日常を入れたのは、おそらくそういうふうに持ってゆくためだろうという見込みくらいは、詳しい人なら立っただろう。でも、大月に反対されて、ああなった(らしい)。原プロット通りだと、ステルヴィアは、舞HiMEより先に、日常からサヴァイヴァルへ、萌えキャラが殺し合う、という場所に到達したことになり、吉野も出鼻を挫かれるところだった。ステルヴィアは、日常の中でのサヴァイヴァル、つまり、能力主義のサヴァイヴァルが基調になっているともいえ、天然で天才肌のしーぽんがヒロインですが、周りには妬みが渦巻いている。殺し合いへの傾斜はあるのである。


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